迷人伝 その8

 紀昌は無事試験に合格したわけであるが、この事件が合否に影響しなかったのは、試験官である教師のプライドによるものだったかもしれない。受験生に睨まれただけで倒れこんでしまうという失態を、彼は報告できなかったに違いない。しかしながら、この事件は伝説となって広まってしまった。同じ教室で試験を受けていた他の受験生たちが、自分の友達や知り合いに言い伝えたからである。

 例年よりも遅れて開花した桜が儚く短い最盛期を迎えた頃には、新入生だけでなく在校生や教師までもが、紀昌の起こした事件のことをすでに知っていた。その噂の中には、尾びれ背びれが付いたものもあった。「試験官を殴った」という凶暴説もあれば、「あいつに学校をシメられてしまう」という陰謀説や「悪魔が人の姿をして現れた」という暗躍説もあった。しまいには「目から鋭い光線みたいなものを出した」という怪獣説まで囁かれる始末である。

 そんな意味不明な噂のために、紀昌は入学早々悪ぶっている上級生たちに呼び出されるハメになる。しかし、その後彼らが紀昌のことをつけ回すことはなかった。その理由は誰にもわからなかったが、誰でも容易に想像がつくことでもあった。上級生たちも同級生たちも、誰も紀昌に手を出さなかったし、逆に親しく声をかけるような者もいなかった。

 そういう意味では、紀昌の高校生活はいたって平穏だった。荒々しい海原に飛び出した紀昌に安らぎの一時が与えたようなものである。ただ、それは嵐の前の静けさといったところである。しかし、これほど修業に集中する場所と時間が確保されることは珍しい。紀昌の人生の中でも、濃密で素晴らしい修業の日々が過ぎ去っていったのは間違いない。

 嬉々として新芽を生み出した春の陽は、いつしか新緑を透かすほどの烈しい夏の光に変わり、澄んだ秋空に架かる飛行機雲が空高くなったかと思うと、はや寒々しい空には無数の星が美しく煌く。

 季節の移ろいと共に、紀昌の修業の成果も確実に段階を踏んでいた。ほぼ一日中、自分の左手の中指に書かれた黒点を睨みつけていたわけだが、その大きさは日に日に大きく感じられるようになっていった。汗か何かで、ほとんど消えかけた黒点であっても、それは同じだった。いや、より詳細に、その黒点を分析することもできるようになった。ペンで書かれた黒点をよく見ると、さらに小さな黒点の集合体であることがわかる。また、自分の指紋でできた線も鮮明に識別できるようになっていた。

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