【短編】犬を飼いたいので結婚しませんか
「犬を飼いたいので、結婚しませんか。」
初夏の晴天のもと、喫茶店のオープンテラスで、コーヒーを注文したばかりの白シャツが、会話を切り出した。
本日の相手である、紅茶を注文した青いポロシャツは知る由もないが、白シャツは結婚紹介所での三十回の見合いを全て同じ台詞で始めていた。
相手の反応は概ね、次の三つに決まっている。
「唐突ですね。犬が好きなのですか。」
最も多いのは、苦笑いしながら微笑むパターン。この良識ある人種は場を立て直そうとして、天気や趣味の話を始める。中には、白シャツの奇抜な会話の始め方に対して、うっすらと嫌悪感を滲ませる者もいる。
「ああ、私は犬は大嫌いなのです。」
このパターンの場合は、もはや、致し方がない。最速三分、注文を経ずに解散したケースもあった。
「私も犬が好きですよ。家に犬が居ると、楽しいですよね。」
価値観確認として受け止めるパターン。犬好きの場合、結婚相手が犬好きであるかどうかは重要であるため、会話の最初の確認事項としても、至極当然のように受け入れられる。
だが、この人種も、次の分岐点であっけなく終了する。
白シャツは朗らかに続ける。
「そうですよね。じゃあ、古くても借家でも古民家でも何でも良いので、庭付きの家を探しましょう。それから、散歩はどのくらい歩けますか。出来れば、家族全員で、朝と夜の散歩をしたいのです。犬は散歩で、散歩は犬ですからね。」
白シャツが言葉の通り、完全に犬を飼うために結婚をしようとしていることが明白になり、誰もが顔を引き攣らせる。
結婚とは、仕事の条件と姿勢、ライフスタイルや余暇の過ごし方、交友関係や社交性などの総合的な価値観の擦り合わせである。
その八割を犬と指定されてしまうと、どのような婚活AIでも、最適な相性を見出すのは難しくなる。AIの成功率を著しく下げ続ける白シャツに対して、相談所スタッフは厳しく禁止していたのだが、白シャツは今回も冒頭の台詞を躊躇なく相手に伝えた。
注文を取ったばかりの給仕は、またか、という憐みの眼差しを白シャツに向けた。席も注文も台詞も白シャツも、白シャツは全く同じように繰り返すので、給仕は頻繁に既視感に襲われて、白シャツのテーブルを離れた後は、必ずカレンダーの日付を確認する習慣がついてしまっていた。
普通は、もし、交渉を成功させたいのであれば、失敗の原因を探り、改善しようと努める。だが、白シャツにはそれが無い。白シャツの学習能力の無さに、給仕は最初、苛立っていた。
しかし、十回目を超える頃に、考えを改めた。そもそも、白シャツの場合は、交渉が目的ではないのだ。相互交流のコミュニケーションでさえもない。これは選手宣誓である。独立宣言。設立趣意書。そのような、確固たる意思の表明なのだ。
そうなると、随分と失礼な話だ。聴き手は必要なくなってしまう。
しかし、曲がりなりにも、お互いの貴重な休日を寄せ集めて、新しい人間関係を結ぼうとしているのだ。そのような悪意のあるモチベーションで、この熱意ある会話を、三十回も繰り返せるものだろうか。
給仕はいつものように、白シャツについて考察しながら、二人の注文であるコーヒーと紅茶を、テーブルの上に置いた。
青ポロシャツが、ゆっくりと口を開いた。
一か、二か、三か。
白シャツと給仕は、お互い知る由もなかったが、全く同一の選択肢を予想しながら、全く同じタイミングで緊張して、相手の顔色を伺った。
ところが、その日に限っては、白シャツに第四の選択肢が開かれた。
「良いですね。しましょうか、結婚。」
いつものように断られると思っていた白シャツは、力が抜けて、椅子にもたれた。だが、すぐに意味を理解して、勢いづくと、興奮した面持ちで身を起こした。
「良いのですか。犬が好きなのですか。犬が飼いたいのですか。そのために結婚してくれるのですか。」
両手で落ち着くようにと示しながら、青いポロシャツは笑った。
「ええ、良いのです。犬は大好きです。大人になったら飼いたいと思っていたのを、今、思い出しました。あなたに言われて、この十年、損をしたな、と思いました。ただし、幾つか、確認したい論点がありますが。」
青ポロシャツの話半ばで、大いに頷きながら、白シャツは演説するかのように姿勢を正して立ち上がった。
「そうなのです。犬との暮らしは喜びです。本当に、十年の損ですよ。実は、家の犬が死んだのです。世界が滅びる予言と、同じくらいの衝撃でした。日常のストレスなど、一気に薄っぺらくなりました。あんな、雨が降る程度の厄介ごとに、毎日、頭を悩ませていたなんて、今となっては信じられません。犬が抜けた穴は洞窟よりも大きいのに、犬がいた人生はもっとずっと大きかったのです。人生が、こんなにも大きいなら、やりたいことは、もっともっとたくさんあります。いきなり死ぬ話から始めて、おかしな奴だと思われるかもしれませんが、そのくらい、犬が好きだとお伝えしたかったのです。」
青ポロシャツは静かに頷いた。
「分かりますよ。愛された犬が死ぬときは、いつもそうです。どんな老犬でも人間の誰よりも幼く、無垢で、いじらしいですから。」
白シャツは、泣きそうになるのを我慢するように眉根を寄せて、青ポロシャツを睨みつけた。
「あの、でも、所詮、犬っころの話でしょう、と思っているのではないですか。虐待や搾取や困窮で人間が苦しむこの経済不況下に、犬道楽など、不健全で、不謹慎だと。」
白シャツの眼は、度々、自分の愛情に土足で踏みこまれた者の闘争本能でぎらぎらと光っていたが、青ポロシャツは真顔で眉一つ動かさずに見つめ返した。
「犬の愛し方と、犬っころの愛し方は、全然違いますよ。別次元です。重さ100kgと時速100㎞はどちらが甘いのかという質問と、同じレベルのナンセンスです。犬っころは、モノです。品物で、付属物で、自分が支配する対象で、単純に気に入っているから、気にいるように生かしているだけです。それは、愛ではなくて、愛玩というのです。」
青ポロシャツは一息吐いて、グラスの水を飲んだ。
白シャツは、呆然と立ったまま、相手を見つめていた。給仕も下がるのを忘れて、佇んだままだった。まだ話は終わっていない。そういう場の緊張感に引っ張られて、初夏の爽やかなオープンテラスで、二人の耳は青ポロシャツに傾けられている。
「あなたは生命を物扱いする人間の心が、愛を育みうると思うのですか。むしろ、愛という豊かな感情を、後天的に育んで獲得した人間に、そのような振る舞いが可能だと思うのですか。」
白シャツは、力が抜けたようで、へたりと腰を下ろした。
「いいえ。思いません。」
「それなら結構です。もしも、今まで、犬っころだの、不謹慎だの、言われ慣れて来たのなら、今すぐその呪いの言葉のほうを、記憶から抹消したほうが良いでしょう。言っておきますが、その連中の目的は、単純にあなたへの侮辱です。理由は何にせよ、他人を侮辱することでしか、自分の憤懣を表現できない人間は子供です。子供に囃し立てられた内容を真面目に受け止める必要はありませんよ。それこそ、人生は大きいのです。この大きな山の恵みを摘み取り、捥ぎ取るには、そんなことに関わり合っている暇はないでしょう。」
淡々と言葉を続けていた、青ポロシャツが、指をメトロノームのように振りながら、強く念を押した。
白シャツは無言で何度も力強く頷いた。
「第一、この対話の論点は、そこではないはずです。私が耳を傾けたいのは、あなたが本当に言いたい核心です。言いたいことは捕まえにくい蝶々のようなものです。上手く話せなくてもいいから、めげずに、私に聴かせてくれませんか。」
「はい。あの、犬っころの話は、ごめんなさい。私がおかしいのか、ずっと不安だったのです。人間ではないものをこんなに愛するのは、不健全な代償行為なのかと、自分を疑っていました。でも、その発想自体が、無意味ですね。愛する心さえ健全なら、何を愛していたって、愛は愛ですね。少なくとも、私は生命に対して、愛玩なんて絶対にしません。そこに、自信と誇りを持とうと思います。」
「そうですね。誇りましょうよ。なかなかに熱い愛だと思いますよ。」
二人は一息つくと、黙ってコーヒーと紅茶を飲んだ。
給仕が、空いたグラスに冷水を注ぐ。
太陽は南に向かって昇り、萌えたばかりの新緑の庭木や深紅のスチールテーブルの上に、真昼の陽だまりを溜め始めている。
白シャツの見合い時間は過去最高を更新していた。
しばらくして、青ポロシャツが尋ねた。
「いくつか確認したい点があります。なぜ、犬のために結婚をしようと思ったのですか。犬を飼いたいなら、また、ご実家で飼えば良いではありませんか。」
「実家では駄目なのです。両親は高齢ですし、兄弟姉妹はいつか家を出てしまいます。けれど、犬を飼うには、パートナーが必要です。問題は、生き死になのです。生き死にだけは、他人とは共有できませんし、一人では受け止めきれません。喜びは倍に、悲しみは半分に、病める時も健やかなる時も富める時も貧しき時も、一緒に暮らし抜いてくれるパートナーが必要なのです。」
白シャツは言い切った。
青ポロシャツは、首を傾げて、腕を組んだ。
「けれども、一人で飼えないなら、やはり、辞めたほうが良いのではないですか。第一、離婚したらどうするのです。いまや、離婚率は二十パーセントを超えるのですよ。あなたは自分がなぜその二割に入らないと、断言できるのですか。それに、不慮の事故でいつ自分の余力が尽きるとも分からない。そんな不確かな状況で、犬を迎えても良いのですか。」
白シャツは、そんなことは何万回も自問しているという、心外そうな顔つきで、青ポロシャツを見た。
「もちろん、考えています。人生には必ず問題が起こりますよね。離婚とはおそらく、問題の積み重ねと放置、そしてその崩壊です。だから私は問題から逃げずに話し合える人物を探しているのです。そうでなかったら、こんなに単刀直入なものの言い方はしません。私だって、結婚相談員の言う通り、流行のスイーツの話やお互いの趣味の話をすることは可能です。けれども、いま私は、必死なのです。もし、万人向けのまろやかな世間話でコーティングしてしまったら、私と深く話し合てくれる人物なのかどうか、分からなくなってしまうではないですか。必死に困って、溺れている私が、ボートに乗って私を見下ろす人間に、スイーツの話をしなくてはならないのだとしたら、それこそまさにそこは、地獄なのではないでしょうか。」
白シャツの持論を聴きながら、青ポロシャツは、茶菓子のクッキー皿から、赤いジャムと市松模様を自分の取り皿の上に並べた。
「それが離婚の予防法ですね。それでは、もう一つを伺いましょうか。」
白シャツは、自分の皿に市松模様を摘まみあげた。
「不慮の事故については、簡単です。労働で所得を得ながら、貯蓄や保険で備えつつ、いざというときの引き取り先を探しておく必要があると思います。しかし、それ以上は、人間の範疇ではありません。運命を知らないからこそ、人間は未来を計画できるのです。明日、死ぬかもしれないと考えてすべての計画を構築するのは、武士だけです。そして、私は、武装集団の戦闘員ではありません。幸福に善く生きられるように、毎日を愉しく頑張るのみです。」
青ポロシャツはクッキーを齧りながら聴いていたが、手を止めた。
「あなたの持論は、よく捏ねられた粘土のようですね。何度も練り直しながら、毎日を共に生きている体温を感じます。薄っぺらの虚栄心からくる反論や屁理屈ではない。真剣さは、分かります。ただ、やはり、気になる点があります。」
白シャツは、クッキーを齧りながら、黙って相手を見つめた。
「溺れている、のくだりです。私もあなたは溺れていると思いますし、必死だと思います。お話合いの覚悟、これはいい。人生で憑りつかれてしまった犬という存在を愛する覚悟、これもいい。ですが、溺れているときに、人間は、冷静な判断が出来るのでしょうか。」
白シャツは、相手の背後に焦点を当てて、黙ったまま水を飲んだ。
「長い人生、浮きも沈みもするでしょうが、人生の転機は、出来れば、溺れていない時のほうが良いのではないですか。確かに、受験や就職、重大な交渉など、スケジュールの都合で、変更が難しいこともあります。体調が悪くても、不幸があったばかりでも、無情な台風のように、襲ってくることがありえます。」
「でも、結婚はそうではない、と仰りたいのでしょう。」
「ええ、そうです。結婚相談所には怒られてしまうかもしれませんが。しばらく、小舟の準備のほうをしてはいかがでしょうか。小舟は一人乗りなので、他人が載っている小舟に這い上がろうとすると小舟がひっくり返ったり、小舟の持ち主から不当な不利益を受けたり、しがちですよ。」
「溺れていることを、この活動で、変化させようと思ったのです。この活動の中で、小舟には乗れないのでしょうか。」
「そうですね。現状を変えようと、行動することは、尊いと思いますが。小舟同士で遊覧をするのが見合いなので、まずは、安定した小舟づくりからのほうが、良いと思いますよ。」
「その小舟、どうしたら作れるのでしょうか。もう、溺れて、くたくたですよ。」
「それこそ、犬のように愉しむのはいかがですか。犬って、疲れてくたくたで、沈みかけているのに、水遊びが好きすぎて、いつまでも泳いでいようとしますよね。それに意外と、浮き輪を投げてくれるひとは、たくさんいますよ。温かい飲み物や、乾いたタオルなんかもね。世の中、そうそう、捨てたものでもない。他人からそうやって貰った浮き具で、少しずつ固めていくものこそが、自分の小舟なのかもしれませんね。」
白シャツはふっと息を漏らして笑った。
「分かります。見たことがあります。疲れても泳ぎたくて、眼も鼻も真ん丸にして、満面の笑顔で泳いでいる犬の顔。本当に、そうですね。そういう意味では、小舟になりかけの、ボディボードくらいの浮き具はもう、手元にあるかもしれません。今日も、浮き輪を一つ、あなたから投げて頂いたような気分です。」
青ポロシャツも微笑んだ。
「それは良かった。それにしても、今日、初めて笑いましたね。浮き輪を進呈した甲斐があると言うものです。」
「余裕が無くて、面目ないです。ああ、でも、なんだかすっきりしました。お茶のお代わり、いかがでしょうか。」
「そうですね。すっかりお昼になってしまいました。お茶と一緒に、ランチもいかがですか。」
青ポロシャツは、メニューを手に取った。
「良いですね。ここの料理はどれも美味しいのですよ。」
白シャツも、メニューに手を伸ばす。
給仕は満足げに息を吐くと、大きく背伸びをした。そして、片付けるともなく片付けていた隣のテーブルから皿を下げて、注文票を取りに店内へ戻って行った。(終)