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【掌編】背中のピンを抜け

 朝の混雑したバスの中で、不意にサラリーマンが私の視界に押し込まれてきた。スーツは明るい青のストライプか、と、ぼんやり、焦点距離すれすれに展開された背広の布地を見ようとして、疑問を持ち、眼をぎゅうっと瞑って、自分の眼球を転がした。
 そっと目を開く。
 背広の肩甲骨の辺りに、肩幅はあろうかという、巨大な安全ピンが、真一文字に留められている。
 銀色の、骨太の、金属光りする、小学校の名札を止めていた、安全ピンの巨大版が、刺さり具合からして、明らかに背中の肉を抉っている。
 思わず、床を見るが、血が滴っているわけではない。

 びっくりして慌てて周りを見回したが、他の乗客は誰も彼の巨大な安全ピンに気づいていない。
 コバルトブルーのスーツに、キャメルのトートバッグを持って、緩く髪にウェーブを掛けたビジネスマンだったから、もしかしたらパリコレかミラコレか何かの最先端のファッションなのか。
 スマホで調べようと、鞄に視線を移すと、後ろに立つ女子高生の背中にも安全ピンが刺さっていた。

 そう、安全ピンが刺さっているとしか、言いようがない。
 女子高生には、羽虫のような小さい安全ピンが、それこそ、びっしりと付いていた。
 ひぃっと声をあげそうになった瞬間、優先席の赤ん坊が大声で泣いた。

 母親の腕に抱かれた、赤ん坊の、その背中にも、やはりそれはあった。
 白い布で包まれた赤ん坊の背中に刺さる安全ピン。
 世も末なのか、世が変わったのか、私の背中にもあるのか、何それ嘘、スプラッタ社会なの。息を呑んで、自分の背中に腕を回そうにも、満員で身動きが取れない。

 と、その時、母親が慣れた手つきで事も無げにあやすと、赤ん坊に刺さっていた安全ピンはすうっと消えた。

 思いがけず、救済方法が示されたが、もはや慈母の手を期待できない成年の私や彼や彼女らは、どうやって、この固く冷たく無痛覚の背中の荷物を、降ろせば良いのだろう。(終)


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