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【小短編】ずぶ濡れの子猫を拾う

 灰色スーツを着た勤め人は、大荷物を会社から持って帰る夜に、土砂降りの雨の中で、子猫を拾った。

 アパート近くのバス停に降り立って、荷物をベンチに置き、折り畳み傘を取り出そうとしたとき、ベンチの下から、か細い鳴き声がした。
 灰色スーツは、凍り付いた。
 バス停の簡易屋根を、雨がひと際大きな音を立てて、叩いている。
 空耳かと思い、踵を返しかけると、その背を追うように、か細い鳴き声が、もう一度響いた。
 屈みこむと、ベンチの下に、通販の箱があった。恐る恐る引き出すと、ずぶ濡れになった子猫が一匹いた。
 灰色スーツは、黙って、子猫を見つめた。
 子猫は、ひと声鳴いて、灰色スーツを見つめた。

 灰色スーツは、エコバッグに子猫を入れて軽く口を結ぶと、アパートに連れて帰った。出しっぱなしになっていたヒーターを点けて、その前にエコバッグの包みを置く。エコバッグは、か細く鳴き続けている。
 一番古いタオルを選ぶと、会社の備品である大荷物を拭いて、明日の朝に持ち出せるように、玄関の隅の清潔な場所に安置した。
 それから、時計を外すと、エコバッグを洗面台に運び、エコバッグはゴミ箱に捨てる。
 ぬるま湯と薄めたシャンプーで子猫を洗い、二番目に古いタオルで拭き、痩せた毛皮にドライヤーを当てた。
 子猫は、湯浴みにも温風にも、小さく苦情を言い募っていたが、ヒーターの前に置かれた、一番新しいタオルを敷いた洗濯籠の中に入ると、ふっつりと黙り込んだ。
 灰色スーツはコンビニへ行き、ペースト餌と猫砂を買って帰って来た。
 子猫はペーストを口に塗られて、最初は不愉快そうに口元を拭っていたが、最後は餌袋に直接齧りついて完食した。
 水を飲み、腹も膨れた子猫は、猫砂の入った段ボールの中で、濡れたティッシュに小突かれて、用を足し終えると、洗濯籠に戻された。

 灰色スーツは、大きなくしゃみをした。
 濡れたスーツを脱ぐと、手早くシャワーを浴びた。

 浴室から出ると、同居人が帰って来ていた。
 同居人は仕事帰りの白いシャツのまま、ビールを飲みつつ、ぐっすりと眠る子猫を眺めていた。
「お帰り。」
「ただいま。」
 白シャツの同居人は、先ほどまで灰色スーツを着ていた灰色ジャージに尋ねる。
「この小さいの、どうしたの。」
「バス停で拾ったの。」
「玄関の大量の荷物は、なに。」
「明日、出張に持っていくやつ。」
 灰色ジャージは、自分の分のビールを冷蔵庫から取り出して、グラスに注いだ。
「あんなに大荷物を、一人で持っていくの。」
「うん、下っ端だからね。」
「誰か、頼めば、持ってくれる人も、居るんじゃないの。」
「どうかな、下っ端だから。難しいよ。」
「靴とスーツがびしょ濡れだったよ。」
「荷物と、猫を持っていたから、さすがに避けきれなくて。でも、大丈夫、もう一着あるから。」
 灰色ジャージは、もう一つ、大きなくしゃみをした。
 鼻をかむと、部屋の隅の小机に向かい、パソコンの電源を付ける。
「パソコンで、何かをするの。」
 白シャツが尋ねる。
「うん、明日の仕事の準備を、少しね。」
「もうすぐ、明日になるよ。」
「うん、でも、気になることがあって。」

「あっ。」
 白シャツは、子猫の洗濯籠を覗き込むと、大声で叫んだ。
「えっ。どうかしたの。」
 灰色ジャージは慌てて、洗濯籠に駆け寄った。
 子猫は、煩そうに薄目を開けると、気持ちよさそうに伸びをして、寝返りを打った。
「なんだ。どうもしてないじゃない。止めてよ。びっくりするよ。」
「子猫だと、助けられるのに。どうして、自分のことは、助けないの。」
「え。」
 灰色ジャージは、怪訝そうに白シャツを見た。
「あんな大荷物を、豪雨だと分かっている日に、一人に押し付けて、誰も助けを申し出ない。それは、痛ましいことじゃないか。何で、あなたは、平気な顔をしているの。」
 白シャツは、ビールグラスを置いて、正座をした。
「いや、だから、それは。下っ端だから、仕方がないんだよ。」
 灰色ジャージは、ビールを煽ると、へらへらと愛想笑いをした。
 白シャツは、首を振った。
「あなたは、こんな大雨の日に、自分が濡れ鼠になって、ずぶ濡れの子猫を助けたのだろう。あんなに利用者が多いバス停で、あなたが帰ってくる夜の夜中まで、だれもが、見て見ぬふりをしたであろうこの子猫を、拾ったんだよ。それも、残業で泥のように疲れ果てた夜に。楽しみにとっておいた、とっておきのタオルに、寝かせてあげている。だからこそ、いつも、いつも、私は不思議なんだよ。」
 白シャツが、真っ直ぐに目を見つめてくる。灰色ジャージは、どぎまぎして、視線を逸らした。
「そんな、別に大したことじゃないよ。」
「大したことなんだよ。大したことじゃないことを、積み重ねていくから、大したことになるんだよ。なぜ、この子猫は、当たり前のように救っておいて、自分のことは、いつもいつも、放ったらかしにしてしまうのか、私には、不思議でならない。大したことじゃないなら、その濡れた髪くらい、乾かしたらどうなの。」

 灰色ジャージは、笑いながら、ビールをグラスに注いだ。
「さっきから、大袈裟だなあ。猫と人間じゃ、サイズが違うんだから。私のほうが大きいし、屋根のある家もあるし。だから、助ける、それだけだよ。」
 白シャツは、灰色ジャージの眼を、じっと見つめていた。
 灰色ジャージはそれを察して、テレビのリモコンを探したが、見つからなかったので、ビールをまた煽った。

「そうやって、放ったらかしにしていけば、あなたは、ずぶ濡れの子猫より弱くなってしまうんですよ。」
 淡々とした声で話すものの、白シャツは、終始、真顔だった。
 灰色ジャージは、頭を掻いた。
「困ったな。仕事の邪魔、しないでよ。そっちだって、仕事してるんだから、この気持ち、分かるでしょ。色々と、今は、余裕がないの。」
 白シャツは、ビールグラスを持ち上げると、一気に飲み干し、音を立てて机に置いた。
「あんなに仕事を頑張らなければよかった。」
 朗々と歌うような声で言った。

「何、それ。」
「死ぬときの後悔の一つですよ。もっと、自分の本音に正直に生きれば、善かった。愛してくれる人と、もっと一緒に居られれば、善かった。あなたはもう十分に、給料分以上に、働いています。あなたには給料以上の価値がある。それどころか、本当なら、人間は、存在するだけで、十分に価値があるのですよ。そんなことも、分からなくなってしまうほどに、あなたたちは、自分という感覚が擦り減ってしまっているのです。」
 早口にまくし立てられて、灰色ジャージは、うんざりしたように溜め息を吐いた。
「もういいよ、分かったよ。寝ればいいんでしょ、寝れば。」
 白シャツは、明るい顔で笑った。
「分かって、くれましたか。自分の分の自分だけは、絶対に、擦り減らしては、駄目なんですよ。子猫と同じですよ。湯浴みをさせて、ドライヤーで乾かして、美味しいペーストを与えないと、駄目なんですよ。自分は、有限なんですからね。」

 灰色ジャージは、湯舟で体を温めさせられて、暖かいカモミールティを飲まされて、スマホの電源を落として布団に入らされて、五分も経たずに、泥のように眠り込んだ。

 翌朝、灰色ジャージは、一人暮らしのアパートで目を覚ました。
 珍しく、スヌーズ機能を使わずに、すんなりと起きあがった。
 もう一着の黒スーツを着ると、子猫を洗濯籠ごと、猫好きのアパートの大家宅に預けて、大荷物を持って、出張へ出掛けて行った。(終)


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