空気を読むのに疲れたときには、他者の靴を履いてみる。
「エンパシー」という言葉が刺さるのはなぜか
著者のこの言葉の通り、私もまさに「エンパシー」を知りたくて、『他者の靴を履く』を手に取った。
エンパシーとシンパシーは違う
「スキル(能力)」と「感情」では、大きく違う。
だが、日本語だと、同じ「共感」と訳されてしまい、弊害が出ている。
シンパシーという感情は、自分の内側から出て来るもの。素朴な気持ち。
だから、自分の身内や、内輪や、好きなものに向けるのは簡単。
逆に言えば、好きではないものには、とことん冷酷にもなりうる。
それに対して、エンパシーという能力は、後天的に学習して、練習して身につけるものだという。
好きでもないし、同感でもないけれど、なぜ、あなたがそこまで思い詰めてしまったのかは、分かる。
そうやって、自分の好悪の感情を保留にして、相手の気持ちを想像して理解するためには、特殊スキルが必要なのだ。
長年のもやもやの原因はこれだと思う瞬間
私は、これだ、と思った。長年のもやもやの原因は、これだった。
「共感」が大事だよね、「エモい」よね、「尊い」よね、「絆」だよね、「感動した!」。エモーショナルな「共感」の嵐のなかで、自分が感じている違和感。
「それは善いことなのかもしれないけれど、私はそれに共感をしないし、共感を強要されることが、既に、結構、わりと無理。」という違和感。
その違和感を、うっすらとでも滲ませれば、すぐに直球ストレートが飛んでくる。「空気読んで。」
「共感」か、内輪的死か。その二択を迫られる時点で、この「共感」が、道徳的だとは言えないだろう。
それとも、私は血も涙もない冷血漢なのか?普通の感情は持ち合わせているし、別の場所では共感して楽しむこともできる。
ただ、強要されたときに毎回、共感できるとは限らないだけだ。
そう感じていた、長年のもやもやを、エンパシーとシンパシーの区分は、綺麗に吹き飛ばしてくれた。
あれらは「シンパシー共感」だったのだ。
sym‐pathyのsymは「共に」「同時に」「類似」syn‐ の異形。pathyは感情。英語ではまさに、類似感情のニュアンスを表している。
だから、空気を読むのに疲れていた
あの「空気読んで」は、「シンパシー共感をして」という要請だったのだ。
だから、感じていない感情を感じろと強制されることが、苦痛だったのだ。
しかも、空気には逃げ場がない。
空気を呼吸しないことは、すなわち、死ぬことであり、恐怖のどん底である。空気には、比喩表現としてさえ、寛容さや容赦がない。
「エンパシー共感」は、自分の靴を脱いで、他者の靴を履いて、また迷うことなく自分の靴に戻る「能力」の使用だ。
逆上がりをするように、林檎の皮を剥くように、能力を使って、試してみる。そして、いつもの自分に戻ってくる。
自分の感情を偽るような息苦しさは、そこにはない。着脱式、オンオフ式、使ったら戻す。道具としての、能力としての、他者への思いやり。しかも、対象範囲は、身内やお気に入りの人間に限らない。
エンパシーの語源
エンパシーは、生まれて100年ほどの新しい言葉で、実は英語圏でも日常生活で定義をきっちりと分けて使っている人は少ないらしい。
だが、重要な概念として社会的に流行して長く、著者の中学生の息子が、公立学校でエンパシーについて述べよという問いかけを受けている程度には、浸透しているという。
もともとは、ドイツ語の感情移入「EinfÜhlung」の訳語だったらしい。英語に直訳すると「feeling-in」。
それを学者が試行錯誤して、in-feelingの語順でギリシャ語に直して、「em‐pathy」となったそうだ。
好きな訳語を自分で考えてみる
シンパシーの「シン」は、シンクロ(同期)。シノニム(同意語)の「シン」。完全一致感のあるシンパシー。
エンパシーの「エンem」はen-の異形。en-fold(抱え込む)は抱えの中へ入り込み、en-dear(慕われる)は慕わしさの中へ入り込み、enslave(奴隷にする)は奴隷の境遇の中へ入り込む。
個人的に、中へ入り込むニュアンスのエンパシーは、感情の森に分け入っていくイメージだ。
つくづく、日本語の「共感」という言葉が、分化してくれたらよいのにと思う。
それでは、もし、自分が好きに訳していいとしたら、何と訳すだろう。
シンパシー。同意。激しく同意。直感。分かる。
エンパシー。他者の靴を履く。無知のヴェールを被る。感情保留。熟考。多角的検討。
だとすれば。
シンパシーは、共感。共感はもうシンパシー漬けなので、シンパシーに譲る。もしくは、共同感。同一共感。
エンパシーは、分感。感情を分け合う。感情に分け入る。わけいってもわけいっても他者は他者。推感。感情を推測する。入感。相手の感情に分け入る・・・。
シンパシーは共同感。エンパシーは移入感。
ひとまず、これで決定としたい。
さて、エンパシーとシンパシーの区分だけが、この本の良さではない。
もっと深くエンパシーを掘り下げるべき、と考える著者にとって、言葉の歴史研究は、ほんの入り口に過ぎない。
新しくて、道徳的で、万能そうなエンパシーだが、実はどうやら、そうでもないという。
このあとは、「エンパシーはダメ論」と「エンパシーだいじ論」が続く。
そして最後にもちろん、「アナーキック」な提案が出てくる。
毎回、毎回、読書感想文に熱が入りすぎて異様に長くなるので、今回はここで終了とします。第二弾は、また後日。
ご一読ありがとうございました。
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昨今、とかく、一方的な意見、自分の意見を擁護する証拠ばかりを集めた主義主張が、耳に届きやすいような気がします。
まさにそれらは、シンパ(シンパサイザー:信奉者)のシンクロした異口同音。
何気なく聞き過ごしていても、やはり、その偏りや重みに、耳が疲れているのかもしれません。
この著者の潔い歯切れの良さを支えているのは、「Aである」を伝えるときに、きちんと、「Aではない」意見も添えてくれる、その公正な軸だと思っています。
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。