仕事島

 目覚めた瞬間から割れんばかりに頭が痛かった。どうしても仕事に行きたくなかった。だから仕事とうに行くことにした。
 電車と船を乗り継いで片道四時間弱。無理して働いた方がずっと早い。しかし職場で心配や迷惑をかける心苦しさに比べれば、この方がずっといい。
 会社に一本電話を入れ、頭痛薬を飲んで家を出た。移動中はずっと寝ていた。

 島は仕事をしていることになりたい人たちでいっぱいだった。

 空が広い。高い建物がないからだ。江戸の宿場町みたいだ。
 大事を取って宿は三日取ってある。

 ずっと眠っていたせいか、頭の痛みはかすかに和らいでいた。頭皮のすぐ下にもやもやズキズキとした予感がある。

 宿に行って、係りの人に部屋に案内される頃にはどんどん眠くなっていった。
 女将さんが夕食と温泉の時間の説明をしてくれる。ほとんど聞き取ることができない。

「じゃあちょっと寝ましょうかね」

 そんな言葉が聞こえた。反応して私は微かにうなづく。女将はテキパキと寝床を整え、私は5分後には布団の中に入って目を瞑っていた。



「いったいどうして病院にもいかずこんな無理をしたんです?」

 翌日目覚めた私の横で、女将はそう言った。とがめるような言い方ではない。私みたいな人は多いのだろう。
 彼女の言いたいことは分かる。私だってそうした方がいいとは思う。以前なら迷わずそうした。
 しかしこの頭痛は慢性的なものだ。病院や薬ではもはや役に立たない。
 基本的に家でじっとするほかない。だが一日で治らなかったら?もう一日休む?
 そんなことできない。
 だったら仕事島に行こうとなってしまう。島に行けるくらいの余力はあるんだぞと、自分にも周りにもそう言い聞かせることができる。

「とりあえずお風呂に入って、着替えてらっしゃい。その間にご飯を用意しておきます」

 黙りつづける私に、彼女はそう言って去っていった。

 大浴場には行きたくなかった。個室の風呂を使った。五右衛門風呂だ。空がぽっかり空いている。少し熱かった。でも今の私にはちょうど良かった。身体の芯がビリビリと痺れる。

 朝食はご飯と鮭と味噌汁だった。
 おいしい。と思った。
 こんな風にご飯を食べたのは久しぶりだ。
 いつもは作り置きかコンビニ弁当だったから。それも途中で嫌になって残してしまう。

 一息つく。今日は頭痛の心配をしなくてもよさそうなことに気がついた。
 今何時か調べるためにスマホを見ると、微かに振動する。バッテリーが1%だった。通知やメールはない。午前11時。
 充電し、浴衣のまま外に出る。

 どうしたものかなと思う。
 頭痛が治まっても、仕事に戻ればすぐ再発するだろう。
 無理して働けないこともない。でも多分私は壊れてしまうだろう。
 そういう先輩や後輩を少なからず見てきた。その後の人生を全部かなぐり捨てるような働き方に見えた。
 私にはそういうことはできそうにない。

 しかし結婚して家庭に入ろうにも、相手がいない。探すような気力もなかった。

 これは、いよいよ詰みか。

 かぁんと金属音が聞こえる。
 それから回れ回れという男の掛け声、少数の声援。

 野球?

 少し遠くにフェンスが見える。
 自然に足が早まる。

 視界が一気にひらける。グラウンドだ。
 フェンスの周りに大勢の人がいた。彼らが選手に声援を送っていた。
 人混みから少し離れ、グラウンドの様子を見てみる。野球だ。
 遠くからだが、色んな年齢の人がいるようだ。女性の姿もある。

「先輩?」

 後ろから声をかけられた。

「え、八広やひろ?」

 会社の後輩だった。カラフルなミニスカートの衣装を着て、ビールサーバーを背負っている。

「先輩もここに?」

「あんたこそ、どうしてこんなとこで…」

 しかし話の途中で八広は少し離れた人垣の人に呼ばれる。

「話はあとで。5時に宿にいて下さい」

 私はうなづく。
 八広はうなづきを返し、営業スマイルを浮かべてそっちに行ってしまう。



「仕事島まで来て仕事をするなんて、あんたも変わってるわね」

 なんて言いはするが、私は彼女の話が聞きたくてたまらなかった。

「だからこそですよ。みんなが働いていない中で自分で商売を考えて動くのは気分がいいです」

 彼女も体調不良でだましだまし職場に来ている子だった。
 辞めたのかずっと休んでいるのかさえ分からない。職場の噂にのぼることもなくなっていた。
 だけど今はとても元気そうに見える。

「えっと、先輩はどうしてここに?」

 私は言葉をはぐらかしてしまう。
 彼女の仕事が遅れたとき、私は何度か責めたことがあった。どうしてこんなことがすぐできないのと。他の後輩と一緒に彼女の陰口を言ったりもした。

 だけれど今自分が似たようなことになっている。画面や書類を見ていると目が痛くなり、簡単なミスもよくした。八広の気持ちが痛いほどわかった。

 そんなとき誰かにひどい言葉を投げられたら。いや、たとえ何も言われなくてもどんな気分になるのかも。


「先輩もビール、売ってみませんか?」

 そんな私に彼女はそう言った。

「いや、私は」

「好きなときにやればいいんです。私が空いた時間サーバーは使えますし、替えのユニフォームもありますから」

 翌日私は、彼女と一緒にユニフォームでグランドへ行って、その手伝いをした。
 ミニスカートなんて久しぶり。
 サッカーの試合だった。
 ビールは飛ぶように売れた。
 なにせ売り子は私たちだけなのだ。入れ食いである。

 売れ残っても、仕事島内を回れば全部売り切れた。
 二日目。選手たちはドリンクやスタミナ系の食べ物をリクエストした。
 それで急きょ売店から仕入れたものを少し高値で売ったりもした。
 楽しかった。

「先輩は、帰っちゃうんですか?」

 三日目。今日で最後だと言うと、彼女はそう言った。

「うん。でも、またくるわ。楽しかったし、なんかお金も増えたし」

「私、決めてたことがあったんです」

「なに?」

「昔の私みたいに途方に暮れた人がここへ来たとき、こういう風にしてあげたいって」

「え?」

「ごめんなさい。でもそういう風に見えちゃったんです」

「ううん。いいの」

「私が助かったように助けてあげようって」

 私は首を小さく横に振る。

「八広」

「あ、おせっかいですよね」

「ごめんなさい」

 私は頭を下げる。

「先輩?」

「私あなたが辛いとき、ひどいこと言った。許してくれなんて思っていない。償いができるならするわ。ごめん」

 しばらく彼女は黙っている。「先輩、頭を上げてください」

 上げない。このまま彼女に何も返せないなんて、私の気が済まない。意志を助けてくれるみたいに、温泉でさんざ熱せられた身体の芯がビリビリしている。

「あの、その角度、パンツ見えちゃうかもですよ」

 そういえばミニスカ売り子ユニフォームだった。

「私、一応今でも会社に在籍してて」

 思わず顔を上げた私に、八広はそう言った。
 どう答えたらいいか分からず、黙っている。

「向こうだって、辞めさせようにも辞めさせられないのは分かっているんです」

「うん」

 と、それだけ言う。彼女の気持ちは分かった。私だってこのままだったら、遠からずそうなってしまうかも知れない。

「私、これしかなくって。でも遠からず条例みたいなものができて、私みたいな人はここにいられなくなるんだと思います」

 確かにそういうことは起こり得る。起こらなかったとしても、世間や空気や、あるいは自分自身が、八広を許してはおかないだろう。ちょうど私が会社で感じているように。

「だから、私も先輩と一緒に会社に戻らせてください」

 言葉が出ない。

 こんなに元気になっても、やはり彼女は根本的には追い詰められていた。

「このまま売り子をやりな。儲かってるんだから、免許取って品数増やして。私も手伝うし、調子悪い子行かせるから」

 だからそう言ってやった。
 八広はしばらくポカンとしていた。
 でもじっと私の目を見ていた。
 私も彼女から目をそらさなかった。

 彼女の胸がフッと息をしたのがわかった。なんだかすっきりした顔をしている。

「そういえば、大手酒造会社の専務が今宿泊してるらしいって聞いたんです」

 と、彼女は言った。

「わかった。会社にそういうリサーチ強いやついるから、調べてもらおう」

 八広には明日の準備を抜かりなくするよう言い、私は会社に電話をかける。ついでに一週間滞在を伸ばした。

 彼女に少しでも恩を返せたかは分からない。いや、そう感じるのは事を成し遂げた後なのだろう。

 とりあえず今日は八広と大浴場へ行こう。

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