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首が座ってない赤ちゃんをだっこする恐怖を思い出す【ライターの育児エッセイ#1】

30歳まで実家ぐらしで、家事能力はゼロの穀潰し。結婚や子どもを持つことなど考えもしなかった零細フリーライターが、あれよあれよというまに子育てすることになったため、メモをもとに日々の暮らで思ったことをエッセイとしてつづる、零細ライターの育児日記「そして、父になりつつある」。

家事の分担で気づいたジェンダーの問題や、子どもがゼロからなにかを学んでいく興味深い姿勢、子どものかわいいエピソードなどがメインの予定です。

第1回は、子どもの生後3週間頃に書かれたと思われるメモに少し加筆して掲載します。

ーーーここからメモーーー

●赤ちゃんだっこの素人童貞として

こどもが生まれからちょうど3週間経った。

起きている間は、ほぼずっとぎゃんぎゃん泣いている。ほとんどの場合は、抱き上げて、小刻みにスクワットを繰り返すことで、泣き止ませ、再度泣き始めるとまたスクワットをする…。ただただ、それを繰り返すけれど、たまに、疲れはてて、もうちょっとやってられん…と思ったときは、ベッドで泣いている姿をただ眺めるしかないことがある。

眺めていると、出産した翌日、病院での出来事を思い出す。
周囲に小さな子どもがおらず、ましてや赤ちゃんをだっこした経験など皆無。自分の子どもが生まれたとき、我が子を抱き上げることができるのか。

乳児は「首が座っていない」と聞いたことがあり、その状態の赤ん坊をゆさぶることで死に至らしめてしまう事件が少なくないことを知っていた。自分も、万が一の事件を起こしてしまわないか、密かに恐れていた。

出産当日の夕方頃、産気づいた妻とともにタクシーで病院に向かい、現場に立会った。母子同室というルールの病院だったので、出産直後から同じ病室へ移動し、時間を過ごすことになった。

病室へ移動した直後、妻から「だっこしなよ~」と言われ、なかば押し付けられた形で腕の中に小さな体が収まったのだが、自分でベッドから抱きあげたわけではなかったので、完ぺきなだっことしてはノーカン。

つまり、実質乳児のだっこ童貞なわけだ。いや、だっこさせられたことはあるから、だっこの素人童貞だ。

●ギャン泣きする生後1日の乳児を見つめながら、途方に暮れる

そんな状態で、とりあえず出産翌日に見舞いに行ったところ、病室の外で妻が台車のついたクリアケースに我が子の乗せてガラガラ引いて歩くところへ遭遇した。そこで、「トイレに行くので、ちょっと子どもを見ていてほしい」というのだ。

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この写真が、クリアケースに乗った我が子。翌日、家族が見舞いに来た様子。

この「子どもを見ていてほしい」というのは、当然だが、文字通り顔についたふたつの目という感覚器官で、ただ「見ている」ことを期待する言葉ではない。

泣き出したらあやして、なにか不調が無いかを調べ、万が一の場合はナースコールをするなど、様々な対処を言外に忍ばせている。

いや、忍んではいないか。もはや、これらを期待する指示語が、「見る」という言葉なのだ。

しかし、首の座っていない赤ん坊を抱くことの怖さというと、なかなかのもの。出産当日は、妻をねぎらいながらも、別にそこまで感極まってないよという謎のクールさ(注:当時、なにを思ってこんなことをメモしたのか、本当に謎)を装うことで、自らだっこをすることは回避していたことが裏目に出た。

クリアケースをガラガラ押して病室に入り、ベッドの脇において、仕切りのカーテンを閉めてしばらく息子を見ていた。

廊下を運んでいる間は寝ていたのに、数分も経たないうちに、泣きだした。その鳴き声は、「ふえっふえっ」という、くしゃみをする直前のような、若干の可愛さを含んだものから、じょじょに、ぎやんぎやんわめくような声になっていった。こんな小さいのに、こんなに大きな声が出るのか。生き物ってすごい。

ギャン泣きしているところすみませんが、あなたの一番近くにいる人間は、だっこの素人童貞です。おなかが減ったのか、体調不良なのか、ただ不安なのか、なんらかの理由でお泣きになっているところを大変すみませんが、こちらは、恐ろしくてベッドから持ち上げることはできません。

妻が戻ってこない数分間を、ここは精神と時の部屋かな…?と思うほど、とほうもなく長く感じながら、ただ見ていた。椅子に座って見ているのも忍びないので、ただ立って見ていた。実際のところは、おそらく数分間の出来事だったと思われる。

立ち尽くすーーという言葉を辞書でひいたときに、図解で載せるべきであろう姿が、そこにはあったはずだ。

泣いているところに、看護師さんの足音が近づいてくる。まずい。

いや、別になにもまずくはないはずだが、なんというか、「泣いている生後1日の乳児を、何もせずに見ているのは親としてどうなのか」と思われてしまうのではないかという、振り返ってみれば、なんともみっともない、当たり前な不安が頭をよぎる。

赤ん坊に向けて、頼む、泣き止んでくれーーそう願ったところで、はっとした。「泣き止まない赤ん坊の、口を塞いでしまった」。そんなニュースは、こういう、しょうもない自己保身の気持ちから生まれるのではないか。
家に帰った後、壁の薄い安アパートで、泣き止まない赤ん坊の声にいらだった周囲の人々から責め立てられ、謝り倒すも、泣き止まず、それに疲れた末にーーつい、口を塞いでしまうのでは?

そんな社会問題に思いを馳せつつ、天下国家を語ろうとしているが、実際やっていることは、ただ泣いている乳児を放置している、ろくでなしである。
そんなことをことをしているうちに、やがて妻が戻ってきた。

「泣いてるのに、なんでだっこしてないの?」と、社会通念上、このシチュエーションにもっともふさわしい、100点満点の言葉を投げかけてきたので、「ちゃんと見ていたよ」と、屁理屈を述べたところ、「見る」という言葉の多義性を絡めた説教が飛んでくるかと思いきや、彼女はぼくを無視して赤ん坊をあやし始めたのだった。

赤ん坊が泣いてもなにもできないという恐怖を克服するべく、その場で、ベッドから赤ん坊を抱き上げる練習をした。一度できるようになってしまえばなんてことはなく、なんなら赤ん坊というものはずいぶん丈夫なんだなと思うが、始めた抱き上げた瞬間は、うでがぷるぷる震え、ぎこちないものだった。

note_1のコピー

生後1日の赤ちゃんを抱く父親見習い。顔のイラストは妻が描いてくれました。

●「首が座ってないから、だっこするのは怖い」と避けた道の先

最近、初めて洗濯機のボタンを押したときにも感じたことなのだけれど、1回だけでも経験したことと、未経験であることの差は大きい。一度やってみれば、ただボタンを押して洗剤を入れるだけなのに、やってみるまでは、どこを触っていいのかわからない、大きな箱にしか見えなかったのだ。

(初めて洗濯機のボタンを押したのが最近であることの異常性は、自身でも認識しているので、いつかこの件についても書いてみたいが、いったんおいておく)

それが、数日後には、泣き出した息子をだっこをして「おっぱい出ない人のほうが、だっこ上手だよね~」などとしゃべりかけながら(もちろんそんな事実はないのだが、ひとりごとで自尊心を高めるしかない)、スクワットし、泣き止ませるという芸当ができるようになるのだから、経験というものは偉大だ。

出産後、さまざまな家族が見舞いのため来院した。それぞれの母、妻の姉妹、ぼくの妹など、女性たちは嬉々として抱き上げて、乳児に向かってなにやら話しかけていたが、出産当日に来た父、義理の父と、数日後に来た妹の夫は、「首が座ってないから、だっこするのは怖い」と言って、固辞していた。

自分も乳児のだっこ童貞を卒業したばかりなだけに、気持ちはわかる。それだけに、たった一度だとしても、経験したことがあるか、そうでないかの差は非常に大きいことを痛感する。

こういった小さな分かれ道の先に、家事や育児に不参加になる人間が出来上がっていくのかもしれない。

「やらない」のではなく、「なんとなく自分にはできなさそう」という、未体験な出来事への忌避感から、未体験のまま積み残し、そしてその結果、どこかの段階で、強固な「できない」という意識になっていく。

心の奥底に抱えたこれらの意識を持ちながら、それを名言したくないための「(仕事が忙しいから)やらない」「(疲れているから)やらない」などに変異している可能性があるのではないか。

何事も、一度経験したことがあるのか、ないのか。童貞 or NOTの差は大きいのだ。子どもができると、様々な“初体験”をしていくことになるのだが、こわがらずに挑戦するかどうかが、家庭内での役割の大きさにつながっていく。家事・育児に積極的に参加したいと思う人は、とりあえず、なるべく出産に立ち会って、当日か遅くとも翌日には、だっこ童貞を卒業するのが吉だろう。

(終わり)

下記が、エッセイを書き始めた理由です。よければぜひ呼んでみてください。



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