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法要儀式と災害,貧困格差

法要はいらない?

宗門,本山に対して「華美な法要にお金を使うのではなく,社会で貧困などに苦しんでいる人に役立ててほしい」という意見があります。本願寺の法要は期間も長く,一般寺院には賦課金(宗門の税金のようなもの),懇志が求められるため,厳しい声があがっているのだと思います。

2011年の親鸞聖人750回忌法要の年には東日本大震災,伝灯奉告法要が勤修された2016年には熊本地震が起こり,法要と災害が重なったことで「自粛すべきでは」「法要費を被災地のために使えないのか」という意見も出ていたと耳にしたことがあります。

災害時における法要の中止,自粛には

①つらい思いをしておられる方がいるのに仏教をよろこぶ法要を行うのは不謹慎ではないか?(ご葬儀なら「中止しろ!」とは言われないと思います。喜ばしい,盛り上がる,華美であることに問題がある)
②法要には多額の懇志が要請され,集金されているので,やめれば災害支援にあてることができるのではないか?法要よりよっぽど役に立つのではないか?

といった思いが影響しているのではと想像しています。苦しい立場におかれている人を配慮し,助けることは宗教者にとって大切ですし,それが宗教の役割だと多くの人がイメージしておられると思います。しかし,現実には,法要のために募った寄付を他の用途にあてることは難しいと考えられます。

災害支援用の財源は用意されている

本願寺派には,災害時の積立金として「第4種賦課金」が設けられており,これまで台風や地震による被害が発生したときに募金を受け付けていたのに加え,従来の賦課金とは別にふだんから災害に備えて財源を確保しています。したがって,法要をやめなくても,復興支援のためのお金は用意されていると考えられます。

また,どのタイミングで中止,規模の縮小を決定するかにもよりますが,懇志はすでに準備等に使われていることが考えられ,急に法要をなくしたからといって財源が確保できるかは疑問が残ります。東日本大震災,熊本地震は法要の直前に発生したため,懇志がそのままの状態で残っていたとは考えにくいと思います。

人助けは立派なことのように思えるが…

目的と違うことに寄付を使うのなら,懇志を納めてくださった方に許可をいただく必要があるのではないでしょうか?使い道を勝手に変えられるのなら,これからどんな趣旨で懇志を募っても,二度と信用されないと思います。法要のための懇志を「困っている方々のために役立てました」と言われても私は納得できません。もっともらしい理由でお金を集めておいて,納められなかったらペナルティもあるのに「社会に貢献しました^^」というのは外面がよすぎるのではないでしょうか?

本願寺派には「子どもたちの笑顔のために募金」が開設されています。貧困や格差をなくしていくことはきわめて大切だと感じています。もしお力になれるのであればこちらに寄付をしたいと考えています。

法要はお金の無駄ではない

確かに大法要では莫大な額の懇志の要請が届きますし,それが一体何に必要でどう使われているのかもよくわかりません (オールカラーの写真集とか,ご門主様の額縁に入った写真とか…)。法要自体が悪なのではなく,寄付の使い道が不透明であることが不信感につながっているのではないでしょうか?懇志の使い道として法要は不適切ではありません。法要がお金の無駄というのは聞いていて悲しくなります。法要儀式そのものというよりは,それに付随する事業や記念品に変なお金の使い方をしていないか,寄付を門信徒の方からお預かりし,本山に納めた人間は責任をもってチェックするべきと感じます。法要にそんなに多くのお金がいるのか?という問題だと思います。「おかしな使い方をするぐらいなら,せめて困っている方のために役立ててほしい」というお気持ちはよくわかります。

まとめ

・法要をやめなくても,災害支援用の財源は用意されている
・寄付の使い道を変えるのなら,許可を得て納得してもらうべき
・法要儀式はお金の無駄ではない

以上,法要儀式とお金,災害や貧困といった社会問題への取り組みについて考えていることを書かせていただきました。最後までお読みいただき,ありがとうございました。

合掌

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