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僧侶は世間知らず?(3)苦労すると何が得られるか

前回の続き

前回の記事では,どうすれば僧侶に求められる常識①金銭感覚,②人とかかわるときの態度 を身につけられるかについて書かせていただきました。

①金銭感覚を身につける
・門信徒の方と同じか,それより安いものを購入し,使うように心がける
・お金は使わない方がよいというのは間違い。地域経済が衰退する。地元商店を利用する
・お布施はお寺,仏法が続いてほしいという願いで包まれたものだということを忘れない
②人とかかわるときの態度を身につける
・常にみられている,仏様の前では誰もが平等であるという意識を持つ
・仏様からみて恥ずかしくない行動ができているか,自己点検を欠かさない

今回の(3)では,どうすれば「苦労した」といえるのか,苦労することでいったい何が得られるのかについて私の考えを書かせていただきます。

苦労したと誰が認定するのか?

前々回の記事で,今目の前にない苦労を,無理に探しに行って経験する必要はないと申し上げました。人間ならば,誰もが大なり小なりすでに苦労はしているからです。にもかかわらず,「苦労したほうがいいよ」といかにも苦労していない者がいるかのような言い方をするのは,他者の苦労を認めていないからです。自分のイメージ通りの苦労でなければ,苦労とはいえないということです。だとしたら,積極的に苦労を重ねても,他者がOKを出さない限りそれは苦労にはカウントされません。「あなたは全然大したことないけど,私はこれまで一生懸命やってきたしすごい」と言っているのと同じです。相手のためというよりは,他人を利用して自己評価を上げようとしている言葉に聞こえます。

どんな分野でも「苦労したほうがいいよ」という助言は話半分に聞いておくことをおすすめします。人に認めてもらうために苦労する,こんなに馬鹿馬鹿しい話はありません。それなのに,なぜ「苦労しなきゃ…」という風潮が存在しているのか考えてみたいと思います。

①生存者バイアス

「苦労したほうがいいよ」などと主張する人も,したくて苦労したわけではないと思います。苦労などないほうがよいに決まっています。ところが,苦労を強いられて生き残った人は「あの頃があったから…」と思うようになります。「苦労が無意味だった」と考えると自分を否定することになるからです。苦労して生き残れなかった,脱落してしまった人の声は聞くことができないわけですから「苦労したほうがいい!!」一色になってしまいます。

「苦労したほうがいいよ」というのは,他者でなくもしかしたら自分に言い聞かせているのかもしれません。
別の日本語で言うなら「わしの若い頃はな…」と同じ意味だと思います。どんな苦労をしてこられたのか,耳を傾けるとその人と仲良くなれるかも?

②苦労と努力をはき違えている

何事においても,目標を達成するためにはさまざまな困難や課題が立ちはだかっています。それらをクリアーしようと努力し,研鑽を重ねることはきわめて重要です。それだけ自分の成長につながるからです。
「苦労したほうがいいよ」というのは,「○○すると△△というスキルが身につく」という類の話ではありません。「苦労してきた私の話を聞いて」「私はこんなに苦しかったのに,あなたはどうしてつらい目にあっていないの?」「私と同じように苦しめ」といったメッセージが背景にあるのではないでしょうか?

確かに,努力には苦痛が伴うこともあります。一方で,楽しみながら努力でき,辛いと感じない方もいらっしゃいます。「さまざまな技能,スキルの向上」と「ただ辛い目に遭え」というのは全く違います。「辛い思いをすれば人間的成長につながる」というのは大間違いです。「苦労」と「努力」を区別することが必要と感じます。すすんで苦労を探しに行っても心身がぼろぼろになるだけです。必要なのは「努力」です。

まとめ

・だれもがすでに大なり小なり苦労している。人に認めてもらわなくてよい
・苦労は必要ない。しなければならないのは努力
・苦労しても何も得られない。マイナスの方が大きい。だからこそ苦労した人は「意味があった」と自分に言い聞かせる

お釈迦様が「一切皆苦」とおっしゃったように,この世にはつらいこと,苦しいことがあふれています。悪い方に合わせて「だからお前も苦しめ!不公平だ!」というのではなく,悲しい思いをする人がひとりでも減るように,「少しでも世の中がよくなってほしい。こんな思いを他の人にはさせたくない」と考えるほうが建設的なのではないでしょうか。
次回の(4)では「世間を知る」ためにはどうすればよいかについて,考えていることを申し上げたいと思います。最後までお読みいただき,ありがとうございました。

合掌

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