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僧侶は世間知らず?(4)お寺や僧侶も世間の一部

前回の続き

前回の記事では,苦労をして何が得られるか,どうしたら苦労したといえるのか,ということについてお話させていただきました。

・だれもがすでに大なり小なり苦労している。人に認めてもらわなくてよい
・苦労は必要ない。しなければならないのは努力
・苦労しても何も得られない。マイナスの方が大きい。だからこそ苦労した人は「意味があった」と自分に言い聞かせる

繰り返し申し上げておきますが,苦労を自らすすんで探しに行くことは全くの無意味です。それならお経や字の練習をしたほうが自分のためになります。
今回のnoteでは,「世間知らず」の「世間」とはなんなのか,世間知らずにならないようにするためにはどうすればよいかについて,考えていることを書かせていただきたいと思います。

世間の定義

(1)で申し上げましたように,「世間」の定義はきわめて柔軟性がありあいまいです。教員の方が働いておられる,学校や教育の現場も「世間ではない」とみなされることがあるようです。また,官僚や国会議員といった,国を動かしている立場の方が「おれたちがどんな生活してるかなんてわかんねえだろ」という意味で「世間知らず」と批判されているのを耳にします。公務員の方をバッシングする場合にも「世間知らず」は頻繁に使われます。

私は公務員バッシングには大反対の立場です。脱線しますのでこれ以上は申しませんが,「世間」をひとことで言うなら「民間企業」なのだと私は思います。民間企業ならほとんどの場合「世間」に含まれると考えられます。

民間企業を過度にありがたがるのはやめる

どうやら,民間企業に勤めていれば,あるいはその経験があれば「世間知らず」にならずに済み,大人として必要な人間性やスキルが身につくようです。民間企業はそんなに立派なところでしょうか?それなら,なぜ過労死やさまざまなハラスメントが何度も問題になっているのでしょうか?民間企業でいったいどんなことが身につくのでしょうか?私の個人的な意見ですが「社会性」や「常識」といった,明文化されていないけれども,たくさんの人が共有している対人場面でのふるまいやそれに必要な技能,知識が身につくのかな,と想像しました。しかし,これなら会社以外の場所でもトレーニングできそうです。また,こうした資質はどうしたら身についたといえるのでしょうか?「民間企業で○年勤務する」「お寺とは別に仕事を持って寺院を護持する」ことでしょうか?いったんスキルを獲得すれば,それは生涯にわたって維持されるものなのでしょうか?

世間など一生かけてもわかるわけがない

世間とお寺(世間以外の場所),というように単純に二分割して考える方がおられます。僧侶自身が言っているのだとしたら,自分を変に特別視することにつながりかねないのでやめた方がよいと私は考えます。寺院や僧侶も世間の一部ですし,切り離して考えることはできません。

大学時代の恩師が,「人間は世の中の3%ぐらいのことしかわかっていない」と話していたことが,今でも印象に残っています。図書館には膨大な数の本が所蔵されていますが,きっと一生かかっても読み切れないでしょう。自分の選んだ,興味を持ったものだけでも時間は足りなくなってしまいます。数年民間企業に勤めれば,残り97%の世間がすべてわかるようになるのでしょうか?自分の入った会社と,その周囲の限られた環境のことしか知り得ないのではないでしょうか?私たちが「世間」と呼んでいるものはごくごく狭い世界です。すべてを知ったかのような気になるのはきわめて危険です。わからないことには「わからない」と正直に言いましょう。知ったかぶる方がよっぽど恥ずかしいですし,悪い印象を与えます。

まとめ(途中まで)

・「世間」というのは多くの場合民間企業を指す
・世の中は広すぎる。世間をすべて知ることなどできない
・わからないことは正直に「わからない」と言う

世間の話は,これ一回に収めたかったのですが長くなってしまいました。次回は,「世間」について思っていることの続き,加えて,僧侶がおさえておきたい社会問題についてお話したいと思います。最後までお読みいただき,ありがとうございました。

合掌

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