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平和な国の住民にできることとは 〜米澤穂信『さよなら妖精』から読み解く〜

 いつもお疲れさまです。

 遅ればせながら、米澤穂信氏の『さよなら妖精』を読了しました。

 米澤氏の作品に関しては「古典部シリーズ」と短編集の『満願』ぐらいしか読んでおらず、もっと他の作品にも触れておきたいなと考えていました。

 数ある作品の中で『さよなら妖精』を選んだのは、この物語が今は無きユーゴスラヴィアを題材にしており、その背景には戦争が関わっているからです。

 2022年の2月ごろから始まったウクライナとロシアの軍事衝突は、連日ニュースでも取り上げられています。海を越えた向こうの国では、今でも戦火が飛び交っています。

 『さよなら妖精』で描かれた守屋路行とマーヤ、あるいは日本とユーゴスラヴィアの関係が、現在のウクライナ・ロシアの情勢と似ているように感じるのです。

 何が似ているのか。それは、守屋ないし日本がどう足掻いても傍観者の立場から抜け出せないでいる点です。


*以下、『さよなら妖精』の内容に言及します。ネタバレには配慮していますが、未読の方は予めご注意ください。


 ユーゴスラヴィアからやってきたマーヤと知り合った主人公の守屋は、それまで狭い視野でしか見てこなかった世界が一気に広がった感覚を抱きます。
 ユーゴスラヴィアという未知の文化に触れたからというのもありますが、それ以上にマーヤのとめどない好奇心に導かれて、守屋が自身の暮らす日本の文化を再認識したからこそ、守屋の中の世界は拡大していったのです。
 「マーヤは風穴を開けたまろうど」と称しているように、マーヤとの出会いは守屋にとってはとてもセンセーショナルな体験だったのです。

 いつかマーヤと共に、自分もユーゴスラヴィアへ行きたい。そこでなら、自分の可能性をさらに広げてくれる「なにか」に出会えるに違いない。そんな「熱情」に突き動かされて、守屋は図書館や書店から資料を集めて、ユーゴスラヴィアへの理解を深めていきます。

 しかし、どれだけユーゴスラヴィアのことを知り、マーヤに寄り添おうとしても、守屋が置かれている立場は傍観者でしかないのです。

 作中の時間は1991〜1992年に設定されています。この時期は、スロヴェニアとクロアチアがユーゴスラヴィアからの独立を宣言し、ユーゴスラヴィアの連邦軍とスロヴェニア・クロアチアの間で軍事衝突が起きていました。

 そうした中で、マーヤが日本を訪れた理由は、母国のユーゴスラヴィアで政治家となるために、他国の文化や社会を学ぼうとしていたからです。マーヤはこの時、17歳の少女でした。

 守屋もマーヤと同じ17歳の少年です。しかし、守屋とマーヤとでは置かれている立場がまるで違うことが窺えます。

 マーヤと出会うまでの守屋は、自分の人生を懸けてもいいと思えるようなものがありませんでした。周りの友人たちは懸命に打ち込めるほどのものを持っている一方で、守屋にはそれが無かったのです。そんな彼が初めて自分の人生を懸けてもいいと思えたのがマーヤでした。

 マーヤと共にユーゴスラヴィアへ行きたいと願っていた守屋でしたが、結果としてその願いが叶うことはありませんでした。

 どれだけ当事者に寄り添おうとしても、真に彼女らの苦悩を理解することはできないし、彼女らと運命を共にすることもできない。遠い国に住む一市民にできることは限りなくゼロに等しい。そのような挫折感を、守屋は味わうことになるのです。

 物語の終盤では、マーヤという存在を失ってしまった守屋が、これから自分が何をすべきなのかを見失っている場面が描かれます。特段不自由がなく、人並みに幸せな生活が送れる日本社会の中で、守屋は生きがいを見出せなくなっているように見てとれます。

 『さよなら妖精』を結末まで読んだ際、私が感じたのは「無力感」です。人生の指針を失い、どうにもやるせない気持ちに陥っている守屋の姿を見て、私の心に痛みが突き刺さるようでした。


 この世界のどこかで、不条理な争いに巻き込まれて、為す術もなく散ってしまう命がある。数え切れないほどの悲劇が起きている。それと比べて、日本に住んでいる私たちの日常はとても平和的です。日本では戦争体験のある方々は次々と去ってしまい、戦争を知らない人の方が多くなっています。

 今の日本ではウクライナへの支援が広く呼びかけられています。同じ人間として、ウクライナで起きていることは決して他人事ではないのだ、という訴えは様々なメディアで伝えられています。

 しかし、こうした支援活動に対して、懐疑的な声が上げられました。それはひろゆき・DaiGo両氏による「千羽鶴論争」です。


 両氏が主張したのは、折り紙の鶴をウクライナへ贈ったところで一銭の価値にもならないのだから、千羽鶴は単なるエゴを満たすための行為でしかない、という意見です。

 この「千羽鶴論争」は、まるで戦争に対する日本人の無力さを指摘しているように感じます。日本は軍隊を持たない国であるため、ウクライナに対する支援として資金やドローンなどの物品を送っています。それは言い換えれば、物を送ることでしか日本はウクライナを支援できないということです。

 このことは民間の規模においても同様です。私たち日本の民間人にできることといえば、募金活動か支援物資を送ることです。その中で、複数の団体が戦争の終結を祈る想いから千羽鶴を作ったのです。

 ひろゆき・DaiGo両氏の言い分も理解することはできます。ウクライナの方々の避難生活において、折り鶴が直接的に役立つわけではありません。あくまで千羽鶴とは平和を願う象徴なのです。

 だからといって、切に平和を願う人々の想いを蔑ろにされてしまうことは許し難いことです。
 単なるエゴだ、と蔑むのは結構ですが、ならば戦争とは無関係の第三者である日本人はただ傍観を決め込むしかないのでしょうか。


 『さよなら妖精』の終わり方はとても切なく、「無力感」を抱いてしまうものでした。しかし、守屋路行の今後についてはかすかに希望も感じられるのです。

 守屋がマーヤと過ごした2ヶ月余りの期間も、マーヤのために自分の人生を懸けてもいいと感じた「熱情」も、決して無駄ではないと思います。マーヤのおかげで外の世界のことを知った守屋は、確実に成長しているはずです。
 外の世界のことを知っているのと知らないのとでは雲泥の差があるでしょう。知っているからこそ、人生の選択肢は多くなるのです。

 たとえ戦争の当事者ではなくとも、第三者だからこそできることがあるのではないでしょうか。それを一朝一夕で見つけることは困難ですが、何もしないでいるよりは確かな意義があると思うのです。

 『さよなら妖精』の英題は、「THE SEVENTH HOPE」です。七番目の希望を意味するこの英題は、ユーゴスラヴィアに属していた6つの国の文化とは異なる七つ目の国の文化を築こうとしていたマーヤの夢を示しています。
(米澤穂信氏のエッセイ集『米澤屋書店』より参照)

 作中ではマーヤの夢、七番目の希望が実現することは叶いませんでした。しかし、日本に残された守屋がマーヤの意志を受け継ぎ、新たな希望を見出してくれるのではないか。そんな期待が持てるのです。

 一刻も早く、戦争が終結することを願いつつ。私も自分のできる範囲で、未来への希望を見出していきたいです。



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