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感覚過敏とセクハラ。

「彼はよく、断りもなしに他人の身体を平気で触った。/ 髪の毛を勝手にいじる。うなじに触る。眼鏡を無断で外す、腕を組む……。/ そして私はとつぜん抱きしめられた。息が苦しくなって呼吸できなくなった。/ 男というのはどうしてこうも、ベタベタと身体に触りたがるのだろう。/ 彼にとってはただ「触りたい」だけだったのかもしれないが、こちらとしては「障り」以外のなにものでもなかった。」

(拙著『平行線 ある自閉症者の青年期の回想』@遠見書房版pp.279-280)

 もう誰も38年前のことなど覚えている人はいないと思うから書くが、↑もし今の時代なら確実にセクハラで訴えることのできる案件だと思う。
 だがその案件のあった1985-1986年にあって、果たして「セクハラ」という言葉があったかどうかすらも怪しい。(下記「追記」を参照)
 当時、私を含む参加者たちはその音楽イベントで主催者から、「参加者どうしで仲間や友達や交友関係を増やすように」という意味のことを言われていたから、私としてもその言葉の通りであろうと、懸命に努力した。
 しかし、その代償が、上記の通りの、身体を勝手にベタベタ触られる、ということだった。

 彼は、上記の引用に書いた以外にも、勝手に私の頭にヘッドフォンを被せ、彼の楽曲を数秒再生したところでまた無造作にヘッドフォンを外し、また無造作にヘッドフォンを無造作に被せる(そして、その聴かされたのが、さして素敵でもない騒音みたいな彼の自作曲の特定の一節ばかり)ということを何度も何度も繰り返した。
 いきなり虫刺されの傷を引っかくということもした。
 不意に腕を鷲掴みされ、足を引っかけられて、柔道の技を掛けられるフリをされたこともあった。
 平手打ちされたこともあった。
 で、その平手打ちされた頬や唇のところが、汚れた手でそうされたものだから、後になって炎症や感染症を起こしたり化膿したりして、それはそれで感覚過敏の私にとっては、輪を掛けて我慢ならなかったということもあった。

 私は自閉症のため、親にもほとんど抱きしめられたことはないし、触られたこともほとんどない。
 感覚過敏のためにそうしたことを私が極端に嫌うことを踏まえたうえで、親が愛情でもって配慮してくれていたからだった。
 それを、さして親しくもない、全く赤の他人(それもよりによって異性)から勝手に触られたり絞めつけられたりすることは、私にとってはひたすら痛みと違和感とストレスと苛立ちの原因にしかならなかった。

 当時、自閉症の感覚過敏ということは全く知られておらず、それは手記を発表した1996年および2002年にあっても同様で、私は今でいう感覚過敏を、(人が呼ぶところに従って)「気にし過ぎ」と呼んでいて、“克服すべき性格上の欠点あるいは問題点”と捉えていたために、感覚過敏のことを積極的に手記に含めることはほとんどなかった。
 もし今、それらの手記を書いたなら、感覚過敏について、もっと具体的で詳細な記述が適ったと思う。

(自閉症の感覚過敏の詳細についてはニキリンコ氏や氏家寛子氏や綾屋紗月氏などの著作に詳しいし、今更私がそれらと被る記述をしても仕方がないし、書いても「大袈裟だ」などとして批判を浴びるだけだし。)
 でも批判を恐れずに言えば、平手打ちを受けるときというのは、あたかも顔面を切り裂かれるような感じ。……と書くと大袈裟でしょ。
 というか、よく悲鳴を上げなかったな。というか、正確には、フリーズしていたので、声が出なかった。

 で、当時にあって、「仲間を作らなければいけない」と考えていた私は、そういった「気にし過ぎ」の克服のため、また良好な人間関係の維持や、仲間を作るための代償と思い、修行か訓練のつもりで、ひたすらそれに耐えていた。

 なので、ベタベタ触られることを拒否する、「嫌だ」と意思表示することは、そういう訳だし、加えて、すくなくとも当時にあっては、友達作りをするうえで、「自分勝手」で「許されないこと」だと考えていた。(その是非は別にして)

 だが、ついに限界を超えた私は、「価値観の相違」(実際、お互いに考え方が正反対だったので)を理由に、その人と絶縁した。
「お互い、離れたほうが、幸せになるよ」、と。
(やはり、人の信念になっていること、考え方のコアとなっていることを、頭ごなしに否定するのは、良くないと思うの。)

 そうして私は、まるで地獄のような痛みと触覚の連続から解放された。
 別れたのが、私がパニックや発作や暴力を起こす前で、ほんとうに良かったと思う。
 よく耐えたな、と自分を褒めてやりたい。

 で、最近の、ジャ〇ーズ事件や塾や学校や児童〇〇施設などでの性被害についての報道を調べていたら、実は自分も性被害に遭っていました、ということに気が付いた。(私ってバカだな笑笑笑)
 それで今更というか、出来事から38年も経ってから、こうやって書いている次第。
 それまではずっと、その人のことを、「パーソナルスペースの壊れた、やたら慣れ慣れしい、個性的で変な奴」としか思っていなかった。

 ちなみに彼は私が別れたその直後、某音楽雑誌のソノシートに自作曲が収録されたことが切っ掛けで、その曲がCM曲に採用されて、その雑誌も記事でそのことを大々的にページを割いて宣伝していたが、彼のやらかした、かような暴力や人権侵犯については、もう、どうでもよかったみたい。
 というか、もし、私の(例のイベントで録った)いじめ問題をテーマにした楽曲が、“倫理的に問題がある”“やり過ぎだよな”ということで非難されるのであれば、では、彼のようにセクハラや暴力を働くほうは倫理的にどうなのよ、ということ。
 ジャ〇ーズ問題の発覚からも判るように、もともとそういう業界は、そういうところで、そういう人の集まるところなのでしょう。

■追記

‘セクハラという語の初出’についてBingのAIに訊いてみたところ、こう出た↓

 セクハラという語は、1970年代初めにアメリカの女性雑誌『Ms』の編集主幹でフェミニストのグロリア・スタイネムらが作り出した造語とされています1。日本には1986年に「性的いやがらせ」という訳語が使われたのが最初で、1989年には「セクシャル・ハラスメント」が新語・流行語大賞に選ばれました

(2023.10.10)

■追記@2023.11.11
本記事を公開した後、こういう記事が出た↓のでご参考までに。

#ASD #発達障害 #自閉症 #自閉症スペクトラム障害 #感覚過敏 #セクハラ #暴力 #性暴力 #セクシャルハラスメント #人権侵害 #人権

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