《友達作り》という不毛。
義務教育期間中、私は先生たちから「友達を作りなさい」と絶えず言われ続けてきた。
だが、自閉症の私にとって、学校生活における友達作りは至難の業だった。
というのも、だいたいのパターンというのが決まっていて、何とか努力して友達を作ったとしても、わずか数日もすると、その友達は、必ず決まって、ある特定のいじめ加害者と仲良くなっているからである。
どの人も、どの人も、私がその人と仲良くなった翌日には、その人は必ずいじめ加害者と仲良くなっていた。
そしてその人は、そのいじめ加害者と一緒になって私をいじめた。
そんないじめ加害者と仲良くするような人物とは、私としても最初から仲良くするのは御免だから、あらかじめ、例のそのいじめ加害者と繋がっていない人を探して友達になろうとする。
だがそれでも、その人と繋がってしばらくすると、やはり、その人は、そのいじめ加害者と親しくしている。
世の中には、自分の能力を超えたこと、自分の力ではどうにもならないことというのがあって、それを先生たちは生徒である私に期待しないで欲しいと思う。
私が他の人といくら友達になろうと努力しても、その人が私と友達になるかどうかは、その人次第なのである。
その人の感性や好き嫌いの領域は、私には立ち入れないこと、立ち入ってはいけないことなのであって、もしそうすることがあったなら、その人の自主性や主体性や自由意思を侵害することになるのである。
あのキリストですら、一部の人たちからは蛇蝎のごとく嫌われたのであるから、一般人である私たちはなおのことである。
先生たちは「皆と仲良くすること」を強いるが、そうした圧力が、いじめの温床になっている。
友達作りといじめは密接に繋がっていて、学校生活という狭い世界の中の限られた私の経験で言う限りでは、人と仲良くしようとする努力が、結局はいじめる人間を増やすことになってきたのである。
したがって、学校では、友達作りを強要することは止めるべきだと思う。
友達を作るということは、いわば敵を作ることであり、いじめのための燃料を相手に補充しているに過ぎない。
それは非生産的なこと、非建設的、非創造的なことであり、いくら積んでも、たちどころに崩されていく賽の河原のようなものであり、自分が落ちるための坑をわざわざ自ら掘り抜くようなものである。
学校は、そうした《不毛》なことを強要される、地獄のような場所なのである。◆
(本稿は2020年2月刊の拙著『自閉女(ジヘジョ)の冒険 モンスター支援者たちとの遭遇と別れ』の本文pp.41-42から転載のうえ、若干の手直し・編集を行ったものである。)
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