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やさしさの話

「戦争は、それは誰が誰に何をしたかっていう問題は決して蔑ろに出来ないけど、その上で”人類”っていう見地もあるでしょう?人間として、すべきこと、すべきでなかったことっていう。他と比べて、自分はまだマシだったとかー自分の国はマシだったとかーそういう相対的な見方は、所詮は加害者同士の醜い目配せよ。わたしはそういうの、どうしても許せないの。被害者っていうのは、決して相対化されない、絶対的な存在でしょう?

そこから先の議論は、わたしは興味がないの。」

平野啓一郎「マチネの終わりに」pp.187-188


やさしい人が好きだけど、私が求めるやさしさっていうのはNF型だけが持っているものではなくて(ある程度mbtiのような性格の型を可視化する概念に信頼を置いているけれど、そこからはみ出したものもたくさんある)、ある程度色んな物事に向き合ってきて、そこで得た知見とそれを自分の心のフィルターに通してあれこれ考え抜いた経験を兼ね備えている人にしか持ち得ないものなのかもしれない

どんなに自分の持つ正しさだけを重視する人だって、どうしようもない現状や自分の力だけでは歯の立たないこの世界の様々な側面に触れていれば、そこから何かしらの滲み出るものを感じとれるはず 感情論なんて言葉だけに収められてはいけない、それこそ人類としての正しさが必ずあるはず

私はこう、規模の大きな実体の見えないものばかり大切にしようとしてしまうし、その過程で根拠のなさに自信を失ってばかりだけど、そういう自分の中の何よりも根源的なものというか原点であり基盤であり、自分を自分たらしめているものっていうのは、うまれたときから揺るがない、何ものによっても揺るがされてはならないものなのかもしれないね 自分の自覚の有無によらず、自分の手の及ばない領域でずっと流れ続ける川の水とかBGMみたいな感じ

これは自分以外の誰かに伝わる話なのかな、、

平野さんの作品やゼミの担当教授の言葉から同じようなやさしさを感じたから文章にしてみたけれど、またひとりよがりすぎるかも

私が卒論のテーマに倫理をどうしても組み込みたかったのも、ネット上でどんどん過激化して、無知な人を狙っているかのように拡散される偏った意見を目にする度に泣きたくなるのも、私にはやさしさがあるからなんだと思う でも、それを誇ろうとかそれだけが正しいとかは全く思っていない なぜなら、それは自分に与えられた環境や境遇が形作ったものであって、やさしさに基づいた当たり前を自分の当たり前にできているのは、自分の影響力を超えたものたちのおかげだから

だから、私がふとしたときに発した他人からすると綺麗事すぎる言葉や、福祉や教育に興味を持っていることに対して、立派だねとかやさしいねとか言われると、うーんと思ってしまう でも、人や作品に似たようなやさしさを感じとると、自分のことや自分の持つやさしさを素直に肯定してあげられる

どんな形なら自分を過小評価しすぎず、必要なときには認めてあげられるのか、もっと知っておきたいなあ

まとまりのない、やさしさの話

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