誰かのnoteを読むことは「証人」になるということ。
辛い経験をしたとき、
嬉しいことがあったとき。
「聴いてくれる人がいたらいいなぁ」
そんなふうに思うことはないだろうか?
経験や感情を、自分の心だけに留めず、
誰かにそっと耳打ちのように話せたら。
手紙のようにしたためられたら。
大きな声で「ねぇねぇ」と泣きながら話せたら。
世界に”存在しないとみなされる経験や感情”が、ほんの少しでも聴いてもらえ、誰かに伝達されれば。
肩の荷も降り、楽になるのではないか。
そんなふうに思う時がある。
わたしの喜怒哀楽が「証明」される。
🩰
大学生の時に、心理学の講座に通っていた。部屋が開くまでの30分。いつも私より先に並ぶおばあちゃんがいた。華奢で、品があって。でもどこか「今はもういない誰か」を想う重厚な空気を漂わせたその人と、いつの間にか話すようになった。
よく手紙もくれ、お茶もした。本当に、時間の不思議な巡り合わせで出会ったおばあちゃん。彼女は、若い日から大事にしてきた思い出をたくさん分かちあってくれた。なぜか、私もこの人にたくさん胸の内を明かした。
友達でも先輩でも知り合いでもない。
「二人の間に共通の知人がいないからバラされるなんてことはない」と言ったらそれまでだ。でもきっと、このおばあちゃんだから話せたのも事実。「誰かが知ってくれているのは嬉しい。私の生きた証。」という彼女の言葉が鮮明に心に残っている。その言葉を、そのままお返しした。
🩰
辛さ、悲しさ、喜び。
一人で誰にも知られないまま、この世を去るのは寂しいと思う時がある。
人には、「証人」が必要だ。
途方もない深海を潜り、
鼻がツンとするまで吸い、
これ以上無理というほどまで味わい尽くしたその経験。
そっと受け入れてもらい、
証してくれる存在が、必要だとおもう。
私はいつもnoteに、
あの時のおばあちゃんにお話した色んなことを記している。
自分勝手につらつら書き連ねているけれど、
読んでくれる人は私が生きていることを証明する「証人」だ。
あなたが目を通してくれるだけで、
今日も救われているし、
noteを開いているあなたは、
今日も誰かを救っているとおもう。
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