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ダブルエスプレッソラテ

仕事終わりにローソンでダブルエスプレッソラテを購入。コンビニへ行ったのは共通テストの問題が掲載された新聞を買うついででもあった。毎年センター試験一日目の翌日には新聞を買って国語の小説の設問を解いている。今年の結果は42/50。まずまずの結果であった。私が毎年小説を解くことにこだわっている理由は一体なんであろうか。物語を楽しむことだけに重点を置くならわざわざそんな点数化されるものへの執着は要らないだろう。元来私は点数や評価へのこだわりが強く、そして強いこだわりは結果となって良い数値をたたき出すことが多かった。逆に言えば、こだわっている分野に対して平均点以下は許されないような感覚が根付いている。


平均点。わたしはいつまで他者と背比べを続けるつもりか。いつまで何かを成し遂げて認められたいという承認欲求を背負い続けるつもりか。このところ大学時代の友人の結婚報告を聞くと焦るのは二十代後半の自然な心理状態なのか。何に対しての焦りなのか。この目的が定まらないまま感じる漠然とした焦りが宜しくないものだということは私にだってよくわかる。自分を軸にせず、隣の芝生の青さに見とれている状態。それは目下(もっか)の幸せをもないがしろにしている行為であると思う。「足るを知る」という言葉を自分の身に叩き入れたい、杭で打ち込みたい心地である。


カフェインとミルクの入ったダブルエスプレッソラテは私の体質に合わないことを知りながら明日が休みであることを言い訳に摂取する。いかにも「嗜好品」の味が口の中に広がる。舌の上に残るざらりとしたきついコーヒーのにおいこそが中毒性を生み出しているかのようだ。自分を大切にするということは自分の欲求に従うことであろう。また、自分の体を大切に扱うことであろう。しかし、私はラテを飲みたいという欲求に従えば、体は拒否反応を起こしてしまう。この場合どちらに重きを置けばいいのか。体を労わりたい反面、カフェイン摂取の欲求に抗えない。いっそのことあなたにとっては禁忌ですと診断を下されたほうが生き易いかもしれない。


今年の小説もたのしく解けたことに満足する。そう、自己満足のために解いているのだった。私は小説を解くことが流れでできてしまうからこそ、解き方のコツなんていちいち考えないから教えるのはきっとへたくそ。教えるのは自分も苦手な分野のほうが向いている。今、私が苦手なこと。それは上手に生きることです。なんて俗なセリフで締めます。

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