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『レスポワールで会いましょう』第2話

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【ここまでのあらすじ】
ストーカー事件に遭った27歳の会社員・みのりは、「日常」を取り戻すべく、心の傷も癒えぬまま、元の生活へと帰っていく。
なんとか平常心を保ちながら仕事をこなそうとするが……。

※ストーカー事件に関わる描写があります。苦手な方、同様の出来事によるトラウマを抱える方は、ご自身でご判断のうえお読みください。

第2話

事件のあとは、拍子抜けするほどあっさりと何もかもが流れていった。
手の施しようがないダメージを受けたと思われたみのりの精神状態は予想外に穏やかで、朝は以前とそれほど変わりなく目を覚ました。だるさとうんざりするような憂鬱さを伴ってはいたけれど。

それでも、4日間の有給休暇を取り、休養のための時間をつくった。

「事後処理もあるだろうし、なにより心を休めて」

そう言ってくれたのは直属の上司である澤井だった。マネジャーという肩書きを「なんかすごくカッコつけてる感じするよな、横文字だしな」と常に恥じらい、柔和な笑顔を絶やさない人だ。
澤井の笑顔と言葉にみのりはずいぶん救われたと自覚している。

事件の日、外出からいつまで経っても戻らないみのりを社内の誰もが心配していたとき、警察から職場に電話があったのだそうだ。
みのりのスマートフォンを発信源とする110番通報があったこと、「助けて」という言葉を残して通話が途切れた後の追跡ができないこと、その身に何かあったのは確実だと判断されることが澤井に伝えられた。
澤井は終業後、みのりの実家を訪れ、両親とともに待機してくれていたと聞いている。

尾崎がなかなか捜査線上に浮かばなかったために、みのりの保護に時間がかかってしまったと、あとになって刑事の一人が語った。尾崎は別居中の妻の車を無断で運転し、犯行に使った、とも。だから、あのワンボックスカーの後部座席にはチャイルドシートが、バックドアには「BABY in CAR」のステッカーがついていたのだ。

みのりが保護されたという一報が入ったとき、両親と同じくらい喜んでくれたのが澤井だったそうだ。目には涙を浮かべて、みのりの母の手を取ったのだという。

「『お母さん! 無事だそうですよ!』って、いっしょに喜んでくださって。警察の方にはもちろん、澤井マネジャーにはほんとうにどれだけお礼を言ったらいいか……」

みのりの母は今でもそう繰り返している。

4日間の有給休暇中、みのりは警察の実況見分に同行した。尾崎に連れ回されるなかで立ち寄ったガソリンスタンドや、保護に至るきっかけとなったコンビニエンスストアを再訪した。

当日の何もかもは現実らしさを失って、すでに色褪せた過去になりつつある感覚があった。「殺されるかもしれない」と、あんなにも恐れたはずの7時間だったのに、その一部始終にはもうかすみがかかり始めていた。
子どもの頃、川で足をつらせて溺れかかったときのことがはなから思い出せなかったのと似ていた。怖さが記憶をぼかしにかかっている。

(思い出したくないことは、思い出さなくてもいいのかもしれない)

事件のことを無理に真正面から見つめようとするのをやめたら、日常に身を少しずつ滑り込ませられるようになった。

有給休暇が明け、事件後初めて出社した日。
努めて普段通りに振る舞うみのりに、周囲の社員はあたたかな態度で接してくれた。
腫れものに触るような視線を投げかける者がいなかったわけではない。それでも、何らかの痛ましい事件の被害者となったらしい若手社員に対して、ほどよい距離感を保ちながら寄り添ってくれる社員がほとんどだった。それら社員とみのりとのあいだには心地よい温度の空気が満ちていた。ぬるめの風呂のように、意気込まなくても浸かっていられる気楽さが用意されていた。

「仕事をしていてつらくなることがあったら、すぐに言うこと!」

澤井は相変わらずどこかに恥ずかしさを隠したような笑顔を向け、みのりに言って寄越した。シャイなのに、どこまでも部下思いの優しい人だ。
ありがとうございます、と応じ、通常業務に戻る。

みのりが勤務する会社は「ド日系」と評されることもある国内メーカーだ。転職者向けの口コミサイトに「旧態依然とした体質」と書き込まれることも少なくないものの、社員同士の交流が多く、居心地のよい雰囲気もまたある。

――なにもかもは、表裏一体だから。

みのりは古めかしくも堅実な社風に守られていた一人だった。入社後の研修を終えてすぐ、本社の総務や設備管理業務を担う管理課に配属され、今もそこにいる。

「ねえねえ、佐山ちゃん」

管理課の人間がデスクを寄せ合ってつくる<島>に、情報システム課の遠野由貴とおのゆきが近づいてきた。後ろにやや背の高い男性社員を連れている。由貴と同年輩だろうか。みのりは見たことがない顔だ。

由貴は、みのりが頻繁に昼食をともにする先輩社員だった。3歳年上の彼女は社内結婚をし、保育園に通う子どもを育てている。同性だという気安さはもちろん、飾らない人柄ゆえにたわいのないお喋りに興じられる仲間でもあった。自宅に招かれたこともあるし、由貴の夫が都合をつけられなくなったからと、いっしょに観劇に出かけたこともある。
みのりと由貴は週に2、3回ほど、お昼休みに他部署の女性社員を何人か誘い、空いた会議室でお弁当やコンビニのお惣菜をいっしょに食べている。

親しみのこもった笑みを浮かべた由貴はもう一度「ねえねえ」と呼び、手招きする。みのりは少し顔を寄せながら、由貴に話しかける。柔軟剤か香水の、ほのかで華やかな香りが舞う。

「由貴さん、お疲れ様です。どうしました?」

「よかったよかった、元気だね。詳しいことまではよく知らないけど、心配してたよ」

由貴が、声を小さく落として言う。あの日、管理課のまわりに警察の人間が入っていたことは由貴も察していたに違いない。みのりの身に何かよからぬ事態が降りかかっていたことも。そのことと新聞記事について、誰がどこまでのことを把握しているのか、みのりは知ろうと思わなかった。
ただ、仲のいい由貴にだけは、ストーカーによる事件に遭ったことを簡単に説明してあった。

今、由貴の表情は晴れやかだ。目尻に寄った薄い笑い皺は、快活な性格をよく映している。はつらつとした笑顔がたくさんの社員の好感を呼んでいることを、みのりは知っていた。

「でさ、うちの情報システム課に新しい協力会社さんが来られたの。――岡田さん」

由貴は体をさっと捻り、背後に立つ男性社員をみのりに紹介する。岡田と呼ばれた男性が、顎を引いて軽く会釈をし、小さな声で何か呟いた。おそらく「よろしくお願いします」だろう。

「で、岡田さんのためのビル入館証が必要なのよね。申請書とか、いるんだっけ?」

「ああ、それなら申請書を作成して、マネジャー承認をもらったうえで管理課に投げてください。申請書のフォーマットは社内ポータルサイトにあります。入館証はすぐつくれるので」

慣れた回答が口からすらすらと流れ出ていく。岡田に向かって笑みを見せる余裕もあった。わたし、ちゃんとやれている。みのりは安心する。

「わかった! あとで申請書を送るね、ありがとう」

由貴はパッと手を挙げてからきびすを返し、岡田を伴って去っていった。由貴の動きにはてきぱき、という言葉がよく似合う。時短ママ社員が業務のために使える時間は限られているのだ。
どんなときも手際よく、明るく仕事に取り組む由貴を、みのりはいつも心の中で応援してきた。

自分もいつか結婚して、子どもを産み、育児との両立にふうふう言いながら働くのだろうか、と想像してみることもあった。
なぜかその想像が今、手もとに戻ってはこないのを不思議に思いながら、みのりは自分のデスクに戻った。
申請書が見つけにくいなら、由貴に直接メールでフォーマットを送ってあげてもいいな、と考える。

こうして、日常は再び動き出した。なめらかに、つつがなく。

ただ、みのりは事件以来、あかつき新町駅を利用することができずにいる。自宅方面から見て一つ手前の駅で降り、20分かけて会社まで歩くようになっていた。
それだけが、みのりの心の隅にこびりついた事件の名残なごりのうち、今のところ自分で認識できるものだった。

(第3話につづく)

『レスポワールで会いましょう』全話一覧

■第1話

■第2話

■第3話

■第4話

■第5話

■第6話

■第7話

■第8話

■第9話

■第10話

■第11話

■最終話

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