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【日本全国写真紀行】 54 熊本県阿蘇郡小国町下城杖立温泉

取材で訪れた、日本全国津々浦々の心にしみる風景を紹介します。ページの都合上、書籍では使用できなかった写真も掲載。日本の原風景に出会う旅をお楽しみいただけます。


熊本県阿蘇郡小国町下城杖立温泉


98度の源泉で町じゅうに蒸気が噴き出る山あいの温泉地

 阿蘇郡小国町にある杖立温泉は、他では見られない独特の雰囲気を持つ温泉集落である。小国町は福岡県柳川市と大分県別府市を結ぶ線の真ん中辺りにあり、杖立はその最北の山間部に位置する。山奥に分け入って杖立川の渓谷が見えてくると、川を挟んで突然レトロな町並みが現れる。杖立川にはいくつもの橋が架かり、両脇の町のあちこちから湯けむりが立ちのぼる。九十八度という高熱の温泉から噴き出る蒸気だ。
 湯に入りて 病なおれば すがりてし
 杖立ておいて 帰る諸人
 平安時代の初め、旅の途中で立ち寄った弘法大師が、温泉の効能に感動して詠んだ歌。杖をついてきた人が、この温泉に入ると健康になり、宿に杖を立てかけたまま帰っていく、という意味だが、これが杖立温泉の名の由来といわれている。
 そんな古い歴史を持つ杖立温泉だが、最もにぎわったのは昭和の初めごろだそうである。「九州の奥座敷」と呼ばれ、一大温泉歓楽街として人気を集めた。だが何しろ山奥の小さな温泉地である。押し寄せる客を受け入れるために、狭い路地沿いの旅館や店が次々に増改築を繰り返した結果、家屋がひしめき合い、曲がり角だらけの、迷路のような複雑な家並みができあがった。
 この路地は「背戸屋せどや」と呼ばれる。杖立温泉は平成になって急激に衰退してきたが、それでも、いや、それゆえというべきか、古い素朴な路地裏は取り残され、今も往時の佇まいを見せている。最近では、いわゆる昭和レトロな面影を色濃く残す町並みとして貴重がられ、映画やドラマのロケ地にしばしば使われている。
 ところで読者諸氏は、温泉街のはずなのに、のっけから鯉のぼりの写真ばかりじゃないかと訝っておられると思うが、私たちが訪れたのは四月半ば。ちょうど年に一度の「鯉のぼり祭り」の真っ最中だった。実は杖立はこの行事の発祥の地なのだそうだ。杖立川の川幅いっぱいに張られたロープに吊り下げられた鯉のぼりの数は、なんと約3,000匹。それらが風に吹かれて一斉に空を泳ぐのだから、実に壮観というか華やかである。杖立の鯉のぼりにはジンクスがあり、願い事を書いて吊るすとその願いが叶うという。特に(鯉だけに)「恋」の願いに効き目があるんだとか。
 この期間、温泉街は色とりどりの鯉で満艦飾になる。これはこれで見応えがあるのだが、正直いうと、できればもう一度別の時期に、鯉のぼりのいない静かな町並みを歩いてみたいと思いながら、観光客で混み合う杖立温泉を後にした。


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