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幸せは『健康と金』なのか?

某配信者が幸せとは『健康と金』だと言っていた。
若いのにかなりのお金持ちだそうだ。それは素晴らしい。尊敬に値する。
健康は言わずもがな。全てのことが身体があってこそだ。しかし、金が幸せというのは少し異論がある。

まず金が幸せになるには色々前提条件がある。
まず資本主義社会であること。お金でものを買えたり、人を雇ったりできる環境であることが前提だ。そうでなければカネゴンでもない限り金でお腹は膨れないし、お酒も飲めなければ、いい服も着れなければ、車にも乗れない。お金とはあくまで対価であり、それ自体に満足や幸せの意味はないのだ。

また違うお金持ちは一晩で1000万円キャバクラに使ったみたいなエピソードを聞いた。まずキャバクラに興味がない僕にとっては無駄でしかない。行ったことがないわけではない。ヨイショされたりするのが好きなひとはいいだろう。僕は自分がヨイショされるほどの人間でないことを理解している。その人間をヨイショしてくるひとは気持ち悪いし、警戒の対象だ。そういうのをいただけるひとには楽しくていいかもしれない。ものすごく幸せを感じれるだろう。

僕は最近はほとんどお酒を飲まなくなった。先日の結婚記念日の時に妻とほろよいを缶で1本飲んだぐらいだ。そして妻も子どもも健康で十分な幸せを感じている。僕の幸せは100数十円だろう。

さて、皆さんに問いたいのは1000万円で豪遊して幸せだと言っているひとと、やっすい缶チューハイ飲んで幸せだと言っているひとどちらが幸せだろうかということだ。多くのひとは豪遊できる人生を選ぶだろう。しかし、僕は問いたい。

100数十円で幸せを感じられるって最高じゃないですか?

僕は本当になんでもないようなことで幸せを感じられるようになった。子どものおかげなのだが。

以前にも話したことのあるエピソードなのだが、こんなことがあった。
従業員が某ネズミーランドに行ったとのことでお土産を買ってきてくれた。缶に入ったクッキーだ。当然ありがとう、美味しくいただくわと言っていただいた。それを持って帰ったら子どもがいたく喜んだのだ。
「なんて素敵な缶々!すごく嬉しいよぉ!!!」
子どもが喜んだ顔を見て僕も妻もほっこりしていた。そうすると驚いたように子どもが言うのだ。
「この缶々をくれたひとに連絡しなくちゃ!」
どういうことなのかというと、僕の従業員が缶々をくれたと思っていて、中にクッキーを入れたまま僕に渡してしまったと思ったのだ。クッキーを返してあげないと忘れていると思ったそうだ。
それは元々缶に入ったクッキーなのだよというと一応納得はしてくれたのですが、その時にフト思ったのだ。

クッキー入ってて当たり前だと思っていなかったか?
従業員からクッキーもらって当たり前だと思っていなかったか?と。

某ネズミーランドの缶をもらっただけで喜び、クッキー入っていたら驚く子どもって最強に幸せじゃないか?と思ったのだ。少なくともクッキー入って当たり前だと、従業員はちゃんとしたお土産をくれていると思っていた僕より幸せじゃないかと思ったのだ。

それらは当たり前のようで当たり前でなく、あったらあったでありがたいことだと思った方が幸せじゃないかと思ったのだ。そうすると本当になんでもないことも幸せに思えてくるのだ。

僕は自分の子どもに色々教えられてきた。その中でも随一の内容だ。僕は幸せになった。

ここまではいい話だったが、僕の話には少し落とし穴がある。
お金が幸せかどうかはずっとないひとが言っても説得力がないということだ。そもそもお前金ある状態知らんやんけということだ。これはグゥの音もない。
僕が言うためには一度もしくは現在めっちゃ金ある状態があってからしか本当の意味で幸せに金が含まれるかどうかは理解できないだろうということなのだ。

それに資本社会である以上、子どもに教育を与えたり、習い事させたりするのにも金がいるのだ。子どもに十分させたいことをさせるにも金がいるのだ。その金がないがために子どもの望む教育や習い事ができないことがあった時、金がない時に不幸を感じるかもしれない。それは金が幸せに含むと言われても何も言い返せないのではないかということなのだ。

結論としては僕はいいことを言っているようで、実力が伴っていない、そんなヤツということだ。

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