見出し画像

変わるを選ぶか、従来を貫くか

正直なことを言うと、私は人前では笑顔で接するようにはしているが、心の中は憎しみと怒りの業火が燃え続けている人間である。決して消えることのない炎を、未だに消すことができない。

自己啓発で簡単にも、憎しみと怒りをマネジメントしろと…、もしくはその方法論をツラツラ書かれているものを目にすることは多いが、マネジメントというレベルで抑えられるほどのものではないのは、自分で分かっている。

自分に矛先を向ければ向けるほど、実際に何かを燃やしたくなる衝動というものが走るくらいなのだから。それくらい、私の中にある炎は絶えることはない。

家具に火を点ければ火災へ発展するのは当たり前だ。ならばと思いついたのが、線香だ。線香に火を点けるのなら、問題はないだろう。そう思って、毎日仏壇と水回りに線香立てを使って、火の点ったそれを静かに置く。

煙ゆらめくその先にある赤々とした様相を、自分の心と重ね合わせて、私の細やかなる代弁者として、線香一本にその命運を託すのだ。

さて、
何故ここまで、こんなにも危ない人間になってしまったのか、ということではあるが、心理分析である程度あぶり出せている。

以下は、私の幼少期から社会人30代前半までに及び、信じ込んでいたこの世の正しい生き様である。

①遊ぶことは「罪」である。(酒、タバコ、娯楽など)
②人に迷惑をかけてはいけない。
③手を抜かず、マジメに仕事をすること。
④他人には常に奉仕すること。
⑤失敗は許されないこと。
⑥我慢をした分、その後に良いことがある。

ここはあえて他責にさせてもらうが、この理屈を仕込んだのは私の両親である。私は物心ついた時から、この理屈と共に両親という威圧的存在の下で暮らしていた。振り返れば、幼稚園の頃からだ。

そんな私が、異性の相方を作れたのは、まさに奇跡だったとも言える。

こんな世界に支配されてきたものだから、他人という存在が怖くて仕方ない。更には、失敗というものを極度に恐れているところがある。これは未だに解消されないことだ。恐らく、私の生涯に渡る課題となるだろう。それを覚悟の上で生きている。

①~⑥を見れば分かる通り、まさに四面楚歌の世界である。

遊ぶことが許されない以上、趣味を持てない。
人に迷惑をかけてはいけない以上、人を怒らせるわけにはいかない。
マジメに仕事をする以上、ほどよく手を抜けない。
人に奉仕する以上、自己保身に走れない。
失敗は許されない以上、自分の一挙手一投足にプレッシャーを常に覚える。
我慢をしなければ、幸せになる権利が無くなるから、我慢の世界へ躊躇なく飛び込む。

以上に反する行為を行えば、私の罪悪感は地獄へ落ちるくらいに重くのしかかる。もはや、マネジメントをして対処できるレベルではないのだ。

しかし私は、30代の前半にうつ病を患い、すべての人生観をひっくり返す必要性が出てきたのだ。ここでようやく親から受け取った、自分勝手なマインドコントロールを解く切欠がやってきたのだ。

約30年間かけて苦しんだものを、世の中は、数ヶ月や数年で解決しろ、と言わんばかりにプレッシャーをかけてくるわけだが、土台それは無理な話だ。最近流行していると言っても過言ではない精神疾患の原因は、ほとんどが昨日今日に作られたものではない。そこには必ず、「歴史」というものが存在する。

連綿と続く苦しみ抜いた歴史があり、それがある時、耐えきれなくなり、プツンと糸が切れる。すべてが終わったかのように、白い幕が頭の中に降りてくる。そんな状態にも関わらず、頑張って働けとか、だらしない、弱い人間だと罵ってくるのが、親族も含めた「他人」なのである。

これからの時代、行く先に目処の立たない、自助努力だけでは世の中を渡り歩き、生きて行けない不安定な時代が間違いなく到来する。にも関わらず、今までの価値観を変えずに、この先も突っ走ろうと考えている人に忠告したい。

「間違いなく、自滅するだけだ」と。

私の場合は、数年前に心が悲鳴をあげ、身体がそれに呼応し、具体的な症状を出すことで悲鳴をあげてくれた。それが価値観や判断の基準を変え、生き直す切欠になった。

「あなたが頑張っていれば、それだけいつか報われる」
などと、具体的なようで抽象的な励ましの言葉ひとつで、切り抜けられる時代ではないはずだ。努力した分、報われるのではなく、どのような方向性へ向かって努力をし、どのような結果を構築したいのかが重要だ。抽象的な努力量に比例し、報われる結果がやってくるというのは、どこか本質的に違う。

小手先の、どっかで聞いた、誰かの綺麗な言葉というのは、本質を射抜いているようで、実は射抜いていないものが多い。人の状況を的確に捉えて、その言葉が今、その者に必要なのかどうなのかを吟味しているようで、していない。

他人というものは所詮、それくらいしか出来ない余計なお節介者だ。だが時に、自分をすべて見透かしているかのような、一味違った言葉を投げかけてくる他人もいる。恐らくその人が、今の、今後の自分を再形成する上でのキーパーソンなのだろう。

その良し悪しの判断は、恐らく自分の直感や本能など、理屈や根拠のない感覚的領域でサインを出してくるはずだ。ある存在や事象に対し、抱く違和感や震え、高揚感など。何故それが派生したのかが分からない。でも意外とその感覚は的を射ている場合が多い。

これもまたウィルスと同様に、目に見えぬ領域の話だ。スピリチュアルや超能力の話ではない。元々人間に備わっている、理屈や根拠を超越した判断力の話である。


今後の励みになります。ありがとうございます!