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鷗外とその家族⑤ 珠樹と茉莉とパリ

2022年にスタートしたチャレンジ企画。鷗外長女・森茉莉の著書を出発点に、鷗外とその家族の姿に迫る「鷗外とその家族」シリーズ。 2年目の今年は鷗外本人や家族の著作だけでなく、第三者の視点(著述)も取り入れながら家族の像を描いていきます。

珠樹と茉莉。二つの名前を並べてみると、うっとりするような美しさである。

茉莉とは父・鷗外に溺愛され育った、長女の森茉莉。珠樹は彼女の結婚相手、山田珠樹のことである。二人は明治、大正の日本で、ヨーロッパ文化の色濃い環境で育ち、実際に渡欧もし、「狂乱の時代」とも言われていた1920年代のパリを謳歌する。その後二人は別離するのだが…

明治時代にお嬢様として育ち、晩年はアパートに独居し作家として活躍する森茉莉の、風変わりな結婚生活とは…


1. 鷗外の愛情と、西洋の香りで育った茉莉


鷗外の家庭について、「西洋」「溺愛」「教育」の視点から語ってみたい。


23歳からの四年間、軍医としてドイツに滞在した鷗外は、明治・大正期の家庭にヨーロッパの空気を持ち込んだ。食卓には下宿料理であったキャベツ巻き(ロールキャベツ)やカイゼル二世のサラダなどが並び、茉莉の洋服はパリにあるデパートのル・ボン・マルシェから取り寄せられた。そんな姿を西洋かぶれと見る人もいたが、鷗外は渡欧前からドイツ的なところがあったらしい。大学時代、すでにドイツ語がペラペラ、振る舞いから何までドイツ人のようだったと、ドイツ人教官の一人が回想している。


茉莉たち姉弟は当時珍しかった西洋的な雰囲気と、鷗外の細やかな愛情のもとで育った。鷗外は茉莉の妹と弟である杏奴(アンヌ)や類(ルイ)に、多忙の合間を縫って勉強ノートを作ってやり、朝は一緒に登校した。長女の茉莉にも「蜂蜜に砂糖を混ぜたように」甘く、日常生活に不器用なところも、おっとりとかわいらしく映っていた。茉莉は成績優秀で、両親は家事スキルの習得より学業を優先させ、生活全般のことは女中にまかせきり。朝、女中に髪を結わせながらフランス語のおさらいをして、学内の成績は上位のところにいる、そんな生活だった。

特殊な環境で育った娘が、一般的な結婚生活を送れないことは、両親が一番よくわかっていた。そんな折に舞い込んだのが山田珠樹との縁談である。珠樹はフランス文学を専攻し、優秀な成績で東大を卒業した(茉莉いわく「銀時計」)、裕福な家庭の子息だった。学校を卒業して、そのまま女中が何人もいるような家庭に嫁ぐことが、両親にとって最適解のように思われた。一年の婚約期間を経て、17歳で珠樹と結婚する。


2. 結婚 : パリの日々と父の死


1922(大正11)年、茉莉が19歳の時、先に留学していた夫を追ってパリへ経つ。後に茉莉の人生、文学に多大な影響を与えることとなる、楽しい時代の幕開けである。

「日曜には美しい噴水が空に上がる街の泉水(バッサン)。青い空、雨が後から後から降ってくる懐かしい雨空、橡樹(マロニエ)の青葉が、海草のように透おっている春の空…」(ドッキリチャンネルより)

珠樹と仲間たちは、留学というよりは遊学のような日々で、今も昔も、パリの中心に華やぐ学生街・カルチェラタンを根城に、大学通いの傍ら、芝居に音楽、カフェで文学談義にと、第二の青春を謳歌していた。茉莉も彼らについて、まん丸な目を見開き、日常の雑事を一切放棄した生活を享受する。一日中、寝そべって本や雑誌を読み、合間においしいものを食べる。一歩外に出れば、髪の短いギャルソンヌ(当時流行していた少年風な着こなしをした女性)が行き交い、コティの香水など最先端のもの、モーパッサンの小説どおりの前時代的カフェなど、新旧の面白いこと、美しい人やものであふれている。まさにバラ色の日々である。しかし、この絶頂の日々の最中に人生最大の絶望を経験する。最愛の父の死の報せを受け取るのだった。


三日三晩泣き暮らした後、珠樹がドイツへ行こうと持ちかける。かつて父が青春の日々を送ったベルリンで、悲しみにうちひしがれていた茉莉は感動に胸を洗われる。

あちこちの家の庭先に咲く、生家の庭と同じ花々(鷗外はドイツから種を持ち帰り、自宅の庭に植えていた)。「君はゲルマン系だ」とドイツ人にいわしめた父の顔と、そっくりの容貌で歩く人々。父の書斎の本棚に並んでいたような、書店の書物…。茉莉は父が愛し、父を形作ったものを、そこかしこに見、懐かしさでいっぱいになった。


3. 離婚と珠樹の復讐


楽しい日々を共に送り、悲しみを癒そうとつとめてくれた珠樹とのヨーロッパ生活だったが、非日常の日々を経て帰国すると、家庭生活には暗雲が立ち込め始める。

二人の不仲の原因は色々言われている。子供が二人いる家庭での、茉莉の生活能力の低さ(子供達とは遊ぶだけで女中まかせ。夫が勤め先から帰っても上着を受け取るようなことはせず、珠樹が自分でブラシをかけていた)。次第に顕在化する珠樹のモラハラ気質(嫉妬深く、茉莉の外出を禁じたとも言われているが、茉莉の出歩く癖がひどかったとも言われている)。夫婦生活の不和、珠樹の芸者遊び、等。何か一つ、どちらが悪いという風でなく、全ての要因が関係しあっているように思われる。

結婚十年目、茉莉は子供二人をおいて、婚家を出る。間に人を立て、戻ってくるよう散々説得されるも、頑として戻らず、離婚が成立する。実生活ではぼんやりで、意思薄弱にさえ見える茉莉が、こんな風にきっぱりと決断したことを、いつも不思議に思う。


茉莉は実家へ出戻り、母、妹、弟と生活を共にする。現代なら「あ〜スッキリ、心機一転」と、新生活を始めるのがドラマの筋だが、ここにきて珠樹の恐ろしく執念深い性格が一気に牙を向く。「お前とその家族を一生世間に出られないようにしてやる」と、ものすごいセリフを吐いて復讐に出る。

珠樹とその仲間たちは、東大の仏文科を興したグループであり、世間に対して一定の影響力があった。彼らが茉莉の悪い噂を流しはじめると、その風説は狭いコミュニティであった知識人層の間で一気に広まった。

既に鷗外の後ろ盾を既に無くしていた茉莉達は、世間から孤立してしまう。かつて親交のあった人たちも潮が引くように去っていき、幼い頃に遊んだ上田敏の令嬢にも街で目を逸らされた、と茉莉は悲観している。道ゆく人全てが自分を笑っているというのは、単なる茉莉の被害妄想とはいえず、適齢期であった妹・杏奴の結婚に妨げになるほど、事態は深刻だった。母親は下二人の子供の将来を案じ、パリ留学に逃した。二人は滞在先から、世間の目から逃れてようやくのびのび生活ができる喜びを書き送っている。

珠樹らの攻撃はすさまじく、茉莉の顔を上げられない生活は約二十年続く。二十年という長さに、私は驚く。三十代、四十代のいい時期をまるまる潰されたのだ。現代のネットでの誹謗中傷や炎上の上をいく悪質さと執拗さであるである(しかも実名でやっているのだ)。

>>>後半では50代になった茉莉の逆襲がはじまります。


4. 茉莉の逆襲


さて、なぜ今日我々が、山田珠樹について色々と知っているのかというと、茉莉がエッセイや小説に色々と書き残しているからである。
世間から隔絶されている間、世に出るあてのない文章を書きためていた。父・鷗外についてはすでに他の兄妹たちも本にしていたが、父への憧憬を美しい筆致でユーモラスに語った「父の帽子」で世に認められる。

50歳をすぎて著述業を活発化していった茉莉は、最初は控えめに、70歳を過ぎる頃には歯に衣着せぬ物言いで、結婚生活を振り返る。珠樹のについて「目は蛇のように陰気に光っている」、「蒼黒い悪魔」、「器量を持たない男」、アンナ・カレーニナの冷たい夫になぞらえて「山田カレーニン」など、言いたい放題である。一方で、新婚やパリ時代に楽しい時間を送ったことも事実で、明るく輝いていた日々として回想している。


茉莉が作家として活躍したのは、人生最後の20年で、それはあまりにも短く、残念にも感じる。

生まれついての常識が欠如したぶっとんだ感性は、両親の溺愛、金銭的に恵まれた結婚などによって助長された。同時にそれらの環境で彼女は当時の先端や一流のものに触れ、美意識の礎となった。失意の30代、40代を経て、作家として花開き、西洋の雰囲気と明治・大正の香りが織りいる独自の世界が室生犀星や三島由紀夫に認められ、読者を熱狂的に魅了する。一方、遅咲きの才能は、作家としてのエゴを徐々に目覚めさせ、自己主張が強くなる。アパートで一人暮らしをしていたが、加齢とともに生来の生活能力のなさや常識の欠如が増大し、片付けられない、ものを失くす、アパートのルールが守れない等、周り(家族や編集者)は苦労した。他の追随を許さない感性が読み手を魅了し、普通の人が持つ感覚を持たないために、手を焼かされる。どちらもその出所は同じで、長所であり短所であって、とても作家らしいといえる。

最後の長編小説「甘い蜜の部屋」は60代で執筆を開始、足掛け十年を経て完成した。その後、70代に入って始めたテレビ評、エッセイ「ドッキリチャンネル」は雑誌で人気連載となった。20年は短いと嘆いたが、老齢の茉莉がマグマのように内蔵し放出したエネルギー、作家としての負けん気、気力を思うと、濃密な時間に恐れおののく。


死後、全集が刊行し、中国語に翻訳された著作もあり、その魅力がドメスティックにとどまらないことに、改めて驚かされる。



5. 珠樹のその後


人の一生とは不思議なものである。

生きている間、権力も社会的地位も遥かに上だった珠樹とその仲間たち(フランス文学者の辰野隆など)だが、現代においてその名、業績を知る者はごく限られている。彼らが潰すのに全力を傾けた茉莉の存在は、作家として今日までその名を残し、書店にも並んでいる。(ウィキペディア英語ページにある森鷗外の項には、著名な作家森茉莉の父とある。)


珠樹の人生は資料が少ない。ウィキペディアによると、帰朝後は東大の図書館に勤務し、関東大震災後の図書館復興に尽力したとある。その後、39歳で結核を発症、療養生活に入り、50歳でその生涯を閉じる。思いのほか短かった人生で、持って生まれた才覚、エネルギーを茉莉への口撃以外に費やしていたなら、と思えてくる。


珠樹の茉莉たちに関する吹聴は、離婚後20年近く経っても続き、聞かされる者は今さらのことに閉口したという。ここに、珠樹の執拗さ、暗い性格をみるとともに、本人も自覚しえなかった傷の深さがうかがえる。傷ついたのは、虚栄心か、社会的名声か、フランス文学を愛した繊細で弱い心だったのか。悲しみに向き合えないまま、自分でも訳が分からず、鬼のような形相でまくしたてる姿が浮かんでくる。いたずらに過去の出来事に妄執していたかと思うと、何だか悲しい。


そのことは茉莉も心のどこかで感じ、咎めていたらしく、ドッキリチャンネルの中に、本音らしきものを漏らしている。父親から溺愛されて育った茉莉にとって、愛情は受け取るばかり、「男というものも女に愛してもらいたいもの、だということ、男も女に甘えたいこともあるものであるということを夢にも知らなかった」。そして自分たち夫婦においては「山田珠樹の方が気の毒だと言えるだろう」と書き残している。いつもは面白おかしく元夫をこき下ろしている茉莉が、こんな風に神妙に書いたのは一度だけで、何となく背伸びした茉莉の、ほかのどの恋愛論より男女の真理を言い当てている。そこには珠樹へのいたわりすら読み取れる。


確かに珠樹は茉莉をかわいく思っていて、婚家の居間で茉莉が夫の姉や妹と集まっていると、フランス語のレッスンのために「茉莉ちゃん、一寸」と呼びにきたり、留学先から茉莉を寄越すよう、鷗外に手紙を書いたりしていた。


6. 茉莉を見抜いていた鷗外と珠樹


茉莉の人生を題材にした群ようこさんのエッセイ『贅沢貧乏のマリア 』の中で、群さんは茉莉作品のファンでありながらも、鷗外・茉莉の非常識さに大真面目に憤慨している。その中の一つに、「なぜ鷗外が茉莉の結婚相手に珠樹を選んだのか分からない」とある。娘が不自由なく生活できることも大切だが、それ以前に娘のしつけや、相手の内面も大事だと。私は読みながら、そういう見方もあるのか、と感心しつつ、じゃあ誰だったら適任だったのだろうという疑問も禁じ得ない。私は茉莉の人生において、珠樹との結婚はやはり必要だった、という気がしている。


生涯に渡りパリでの日々を愛し、宝物のように胸に秘めていた茉莉だが、自力で行ける器とは到底思えない。彼女の場合、周りが全てお膳立てしてくれた。全てオートマティック、動く歩道の先にパリがある。そんな人生だ。


死期の近づいていた鷗外は病身をおして珠樹の父・山田陽朔のもとへ何度も通い、茉莉の渡欧をかけあう。山田家は裕福であったが、陽朔は女に洋行は不要か考え、実の娘にも認めていなかった。ついに鷗外は先に船の切符を手配する強行に出て、しぶしぶ事後承諾をとりつける。「俺は生まれて始めて、悪いことを遣った」と妻にもらしたという。


鷗外のこの行動は、最愛の娘に自分の最期を見せまいとする、父としての最後の矜恃、もしくは優しさと解釈されることが多い。私はそれに加え、茉莉に西洋を見せたいとの思いがよほど強かったのだと思う。鷗外自身が「全く処女のような官能をもって」全身で感動し、吸収したヨーロッパである。『舞姫』冒頭で描かれるような胸の高鳴りは鷗外自身のものであり、その輝きは何にも代えられない。そしてその手筈を整えてやれるのは今しかない、と思ったはずである。珠樹も同じであった。夫婦が若い時に同じものをみておかないと、歳をとった時に会話がない、と鷗外に書き送っている。茉莉にぜひ、パリを見せたかったのだ。


パリについた瞬間、パリの空気に馴染み、「茉莉はフランス人だったんだな」と珠樹に言わしめた茉莉。鷗外と珠樹は、鋭い学者の先進的な感性で、生まれる前からパリっ子だったような茉莉の気質を見抜き、よく理解していたように思う。そしてそんな感覚を持つ珠樹に鷗外は信頼を寄せていたのではないか。


二人の人生を俯瞰してみると、どちらもとても恵まれて、相当変わっているように思う。そして文学史の長い絵巻物の中で、山田珠樹という人は茉莉がパリへいくために必要な人物だったと思えてならない。


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