見出し画像

寒空のチューズデーアフタヌーン。

巷では『天国への階段』というが、なぜ天国に行くのに階段を登らなければならないのか。そんなようなことを、近所の喫茶店の階段を上っていた時にふと、思った。これはおかしい感覚なのだろうか。一般的に天国はいいところとされているから、行くまでには苦労も必要だ。もしくは、そこまでして天国に行きたいかどうかを試されている、とでもいうのだろうか。なぜだかはわからない、ただ、猛烈にそれを感じた日があった。天国とはどこだろう。天国とはなんだろう。天国、という概念を、ひとはどうして持つのだろう。つい先日、私のYouTubeを見て『死相が消えた』と言ったひとがいた。つい3ヶ月前、違うひとから『死相が見える。影がない。』と言われた。みんな、何を見てそういうのだろうか。私は、同じ人間だ。3ヶ月前も、そして今も、相も変わらず私は私だ。同じ、みなみだ。諸君はどうだろうか。3ヶ月前と、おんなじ人間だろうか、それとも違う人間だろうか。今日、映画『浅草キッド』を見た。ずっと、見たほうがいいよ!と言われていたのだが、正直あまり関心がなく放置していた。しかしながら、ようやく"その時"が来たので見ることにした。浅草キッドといえば、ビートたけしの半生を描いた映画である。後に知って驚いたのだが、監督はアノ劇団ひとりさんだ。やはり芸人さんは話をまとめるのがうまい、と改めて感心した次第である。ま、結果として言うと、わたしは嗚咽するほど泣いた。畳、ひとり、寒空のチューズデーアフタヌーン・・・そう、今の私に、師匠と弟子の話は厳禁である。そのことをすっかり忘れ、心のドアの鍵を開けっ放しにしてみてしまったもんだから酷い有様となった。映画は好きだ。小説も、舞台も、物語仕立ての歌も、昔からそう言ったものが好きだ。特に写真を撮るようになってから目が光を拾う機能をインプットしてしまったため、あの蒼い光がどうだとか、赤いライティングがどうだとか、窓から差し込む光と陰の対比だとか、そういったことばかり気にするようになった。もちろん、それだけでなく最近は演技だの台詞だの、素人なりになんだかんだスポットを当ててみるようになった。もちろん、来年のショーなどを視野にいれつつ、次は何を創ろうか?いや、何が産まれてくるのだろうか?というところに行き着いている。全く無の部分に立ち返ると、ひどく不安になったり、燃え尽き症候群のようになったりもする。わたしはPANDORAで怪我をしてしまったので、正直、このショーのあとのお決まりの燃え尽き症候群になる暇がなかった。きっと今、怪我なども含めて身のまわりのことが一段落したことにより、遅ばせながらの燃え尽き症候群がやってきたのだ。そう考えるとこの時間もまた、ひどく愛おしいもののように感じる。また育てて、産むことへ向かっていく最初の地点に来たのだ。大地を耕し、種を撒き、そうして水をやって芽が出てニョキニョキと元気よく育っていく•••その微笑ましくも逞しい様子をまた、1から体感していくのだ。さてさて話が脱線したので戻すと。素晴らしい映画や小説に触れるたび、魂の栄養を吸収してこころから喜んでいる自分と、同時に深く傷ついている自分もいると感じることがある。とある写真家の女性が言っていた。「自分が本当に美しいものに触れたとき、同時に、今まで同じくらい醜いものに触れてきたのかと思うと、なんだか心から悲しくなる。」何度思い返しても、凄い言葉だなァと思う。そう考えると、わたしはきちんと傷つくことができているのだろうかと思ったりもする。ちゃんと、目の前の出来事や作品に対峙して、こころが泣いたのだろうか。泣いて泣いて、涙が枯れるまで泣いたあとにちゃんとこころが壊れたのだろうか。そうして壊れたあとに、ひとつずつその欠片を集めて新しい形を創ろうとしたのだろうか。創ることが、できたのだろうか。その総てを、問いかける。全身全霊で、自分自身に問いかける。何度でも言うが、これができなくなったとき、わたしの表現者としての人生は幕を閉じるだろう。なんて、小難しいことを言っている間に、レベッカちゃんは(右手首)リハビリをする段階へ来た。相変わらずギプスは着けたままだが、それでも可動域を少しずつ広げていかねばならない。徐々にわかってきたことなのだが、わたしの骨折はかなりの重症で手術の一歩手前だったそうだ。手術にならなくて本当によかった。たまたま運良く砕けずにいた骨や筋があったためにそれを免れたとのことだった。恐ろしい話だ。ただ、リハビリをしろと言われてスイッチが入ったのかやたらめったら捻ったりなんだりしてもとに戻そうと身体が動いている。わたしの身体は正直だ。さらにもっと言えば、生粋の負けず嫌いでもある。悔しければ悔しい動きをし、楽しければ楽しく、嬉しければ嬉しく、悲しければ、怒っていれば、それ相応の動きをするようにインプットされている。そんなわけで年明けてすぐに、踊るチャンスをいただいた。踊り始めがすぐにあることがどんなに幸せか•••。やはり、踊り子たるもの、踊ることで呼吸をし、そうしてこの世界を泳いでいくものなのだ。時には溺れ、時には揺蕩う。そうして、どこまでもどこまでも、永遠の自由型で生きたいと思う。

MINAMI Stevens Photography

あなたとわたし、2人は出逢えた。光と闇で、絵を描きます。

あなたの物語、聞かせてください。

コトバと写真で、残します。

被写体となってくださる方随時募集中✨

お気軽にお問い合わせください🎵

💌 minamisvp@gmail.com

☎️ 080-4830-3957

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?