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Harmony

の時代がきた

と、まあ、

結構前から思っているんだけども、

本当にそういう時代なんだなあと思うことが

近年で多々増えている。



これは、

伊藤計劃さんという、

もう亡くなってしまった作家さんの作品なんだけども、

僕は人生でかなり影響を受けた作家さんだといってもいい。

彼が生きていたら、

今はどんな作品を書くのだろう、

と、いつも考えることがある。


モーツァルトみたいに

こういう人って、

核心をついたり、

何か、真理に辿り着いたりする人って

35くらいで死んじゃうんだよね。


僕の家の近くに、

35歳以上じゃないと入れないバーがあって

そこは、

前にちらっと扉が開いた時に中を見たことがあるんだけど、

天井に満点の星空が広がっていて

本当に幻想的だった。

入ってみたいなあと思って

なんだかいっとき、そのバーに行くことを目標にして

生きていた時代があるなあ、

なんて思い出した。


突然、だけどさ


長生きしたい

って思う?


僕は、病院にいたり

入院していた時、

幸せに思っているときは

生きていたい。

と感じてる。


今は特段、何か考えているわけでもない

考えの、放棄かもしれない

ずっとこのまま生きているのが当たり前だと思っているのかもしれない。


人間は、その人の使命を終えたら

天に呼ばれる

そう思ったりしていることも一つの原因かもしれない。


手術する日の前日

バカみたいだけど、

このまま麻酔から目が覚めないかもな

起きたら何年もときが過ぎていて

自分の知っている人や家族がいなくなっているかもしれない

その前に、人工呼吸器を外されるかもしれない

もう、知っているのは天のみだなあ

と思ったことがある。


それ以外にも、例えば

今、街中やどっかで、

銃の乱射事件とか爆破事件が起こって、

そこに巻き込まれて

即死なら、まだしも、

例えば足を挟まれて

右足が壊死しているから切断しないと生きれない

とかになった時

あるいは脊髄を損傷して

全身麻痺、半身不随になっても

それでも生きたいと思うだろうか?

と思うと、

正直、わからない。


よく、

もういいから

殺してくれ

というような描写が物語では出てくる

医者は必死に説得する


命を大事にしなさい


自殺にしてもそうだ。


僕がクリスチャンになったのは、

友人が二人、自殺したからだ。


自分は死ぬまいと思った。

すがるものが欲しかったのかもしれない

自死したら地獄行き、

それをなんとなく

なんとなく

何か、すがれるようなものに感じたのかもしれない。


それでも今は

全く教会に行っていない

正直、

聖体拝領を受けたのは3回あるかないか

だと思う。


根本的な価値観というか、

何かを判断する上で、宗教があることはいいとは思うけども、

そこまで必要なのか、と思うことも多く

やっぱり

納得できない何かがあるんだろう、

ただ、タイミングがあったからクリスチャンになっただけで

身近にあったものだから

それだけで、特段何かあるのか

あの当時の気持ちと今の気持ちは同じではないだろうなと思うこと


何より

宗教は踊りをあまりよしとしない

歌は歌う癖に

踊りになると、本当に冷たい

欲望の象徴とされることが多い。

それに対して、心底、怒ってるんだと思う。


僕たちは裸で生まれてくるのに

愛の行為の時には、裸になるのに

欲望を書き立てることが不都合だからと行って

それを良しとしない

忌み嫌う

そうだね

まあ、そうでもしないと

おかしな方向へ行くのかもしれないね


仕方ないよね

という気持ちと

なんでだろうな?

という気持ちと


こういうとき、

本当に理解ができなくなる

もしかしたら、私が基地外で

周りが、いわゆる、正しいものであって

私は、精神的に狂っているからみんな、

私が何を言っているのかわからないのかなとか

檻の中にいる、動物になった気分になることがある


この時のわからない感覚って

本当に恐怖に似たものを覚える


どこまでも続く、

モスグリーンのブラックホール

私が好きな色は緑

本当は蒼だけど、緑も好き

だけど緑は不安の色でもある

そんなときがあって

その、どこまでも続いていく

不和も協調もない世界というか

その二択で考えていることがそもそも

なんなのか

もう真っ白という感じ

とにかくね、何もない、宇宙の浮遊という感じ


これは、高校時代から全く変わっていない


ある日、シスターの絵を描くときがあって

僕は、胸を書いた

そしたら、怒られた

これは、性的な描写だから、おかしいと言われた

そんなに強調して書いたわけではない

ただ、少し、普通に書いただけだ。

大人の女性が、胸が、本当に真っ平らだったら

それこそ嘘だろうと思った。

同時に、単純に、

女性の身体は美しいと思っていたから

書いただけだった。

それでも、ダメだった。

怒られた。

あの時の記憶は、僕が、ベリーダンスを踊っていることと深くつながっていると思う。

女性の体については、僕自身も、ノンバイナリー だから

確かに、う〜ん、となる日もある。


今はさほどでもないけども

でもそれとこれとは違う。


話を戻すとさ、

まあ

このハーモニーっていう話は、

病気がない世界

『思いやり』でできている世界

『心配しておせっかいすることが最大の美徳』とされている世界


例えば、ジャングルジム

のぼって降りようとして、足を踏み外したら

ジャングルジムが変形して地面に落ちないように守ってくれる


人間は体にあるチップを埋め込まれて、

病気になりそうな時は全て政府に報告されて治療される


全てが、政府に筒抜けの世界

それと引き換えに、安全を買う世界でもある


外的なストレスが全くなくなっている世界

これはある意味

宗教で目指している世界なのかもしれない


そういえば、

ダークマンてのもいたなあ

と思い出す。

ダークマンは、映画なんだけども、

拷問を受けて全身やけど状態になってしまって

その治療のために神経を切断し、

痛みを感じない体になるという

確かそんな話だった。


その中で、

痛みを感じないというのは

『感情の抑制が効かなくなる』

という描写が出てきて

『痛み』ってそういうものなのか

なんかよくわからない感銘のようなものを受けた記憶がある。


痛みにも意味があるんだと

これとハーモニーの世界を照らし合わせると

なるほどなあと思うことがある


ある程度、

痛みというのは必要であって

それでも決して心地いいものではないけれども


なんか一気に色々、ここ数日で思い出した。


言っとくと

僕は別に、この世界を、憎んでいたりはしないよ。

いや、憎む日も、ある。

というよりも、自分にとって、不都合かそうでないか、というところにもあるんじゃないか、と、思っている。


生物や物質はお互いに、ただ生きているだけで

それがお互いにとって、不都合かそうでないか、

つまるところそこに行き着くんじゃないか、

というのが、一つの見解だ。


もちろんそれだけではない。

それだけじゃ、つまらないと思う。

これはあるメディアでは、こう言った、疾患を持っている、

とも表現されていて

非常に興味深いなあとも思ったのだけど


踊りは、可能性に満ちているし、

そうでないこともたくさんある

踊りは、祈りに似ている

祈り、よりも、祷かもしれない。


意味があるのかないのか

そう言った点で考えれば、

意味がないのかもしれない。


自分自身はそんなことどうでもよくって

ただ踊りたいから踊っている

踊らずにはいられない

一つの、芸術、音楽への解釈の提示が

私自身が踊りというツールを通して、というか

踊りに求めているもの

踊りというものと、社会と繋がろうとするものの

意味かもしれない。


全てのことには理由がある


きっと、根本で、私はそう思っているのだろう


だからこそ、考えたり、感じたりすることをやめられない


とりあえず、考えずに

やってればいいじゃん

が、理解できないんだと思う

表面的に飲み込むことはできても

きっと、根本で全く理解できてない


ただ、

社会に対して、というか、

自分の芸術家としてのあり方というか

そう言った意味で言えば、

物議をかもす

何か、壁に石をぶつけるような

ヒビが入ろうと入らなかろうと

ぶつけ続けるような

(一石を投じるというと、仰々しい感じがするので)

存在でいよう

と思っている。


それが、ソクラテスのいう

『どう生きるか』

だと思っている


人間は考える葦である


そして、

もう一つ、

得た答えの一つ


美しいものは、美しい


俺はただ、美しいものを、たくさん見たいのかもしれない



踊りの旅は、続く



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