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危うい命の、チェーンストリーミング。

夜中になると、急に堕っこちる。頭は覚醒してしまい、心はどこか深いところへ、堕っこちる。そんな感覚をずっと、ずぅーーーーっと放置していると、どこまでも寝れない洞窟に入ってしまって、二度と出てこられないような感覚になる。さっき、彼が来た。じっと机の向こう側で、わたしを見ていた。そうしてそのまま、ゆっくりと近くまで歩いてきて、わたしの椅子のとなりに座った。そうして静かに、話した。こころで、話した。わたしの本当のこころは、「寂しい」と、言っていた。身体は泣いていた。でもそれは、今日じゃァない。あしたでもない。昨日でも、明後日でもない。きっと、見えない今日の狭間に、突然、現れるのだ。まだ49日たってない。だから、さ迷い続けているのかもしれない。きっと彼も寂しいのだろう。また、一緒にアホみたいに飲み散らかす夜があってもいいのだろう、と思いながらも、それは叶わない。そんなことをたくさん考えていると、いつか引きずられていってしまうので、とにもかくにもそんなときは強制的にチャンネルを切ることに決めた。わたしは過去に、死神に何回か遇っている。こう書くと、「は?」と思う方が、多々いらっしゃると思うのだが、これは事実だ。死神、なのか、死神という概念なのか、はたまた頭のなかで作り出した追体験のようなものなのかは謎だが、それでも何回もわたしの背後に立ち、じっとこちらを見つめ、囁きかけてきたのを覚えている。太田哲也さんという方がいる。彼は、かつてF1レーサーで、ある日、鈴鹿サーキットにて事故に遭い、全身大火傷でなんとか生き残ったという驚異のひとだ。太田さんはその後、何回も手術を受け、なんとか復帰した。今はレーサーは引退されており、ご自身の会社などを経営されている。太田さんは彼の友人で、ずっと「会わせてやる」と言われていた。結局、彼の生前にそれは叶わなかったがお葬式でお会いできた。わたしは太田さんの書籍、クラッシュを読んでいたので、お会いできたことがとてもとてもうれしかった。

太田さんも、事故に遭ったとき、死神に遭ったのだと言う。だがしかし、結局それは追体験であり、死神ではなかったということが確か書籍には書いてあったのだが、すごくよくわかるなァと思った記憶がある。ちなみに、わたしが死神との対峙から抜け出すことができたのは、紛れもなくダンスのお陰だった。これも、アホみたいな話なのだが、「今日はMishaal(当時の師匠)のクラスがあるから、生きねば!」となった瞬間になにかがぶっちぎれてふっ、と死神はいなくなった。死神はジェニーの進化系だ。ジェニーがさらに大人になり、男か女かわからなくなった状態が、死神だ。フム。なかなかに、人生はそういったことが起こるものである。昨日、我らがまどかさんのレッスンだったのだが、その時にも面白い話を聞いた。まどかさんは最近、爬虫類に目覚め、ヒョウモントカゲモドキ(通称レオパ)というちっちゃな恐竜をおうちにお迎えしたそうだ。それに伴って色々なブログなどを読み漁るようになったという。

そこで目に止まったのが、なんと、50匹以上もベタを飼い慣らす女性のブログだったのだそうだ。ベタは闘魚で、ランブルフィッシュとも言う。尾鰭がまるでシルクベールなように美しく、色も、赤や青、紫がかったターコイズなどありとても綺麗だ。わたしも昔、ベタと暮らしていた。雄だったが、ジェシーと名付けて可愛がっていた。ベタは闘魚は闘魚なので、とても綺麗でおとなしそうだが、実は、雄同士おなじ水槽に入れてしまうと決闘が始まり、尾鰭がボロボロになるまでお互いに闘い続ける。闘いはどちらかが死ぬまで続く。生き物というのは、本能的に、きちんと「闘う」ということがインプットされており、そしてそれは「生き残るため」ということに通じているのがとにもかくにも素晴らしいといつも思う。本能と、生きるということが直結しているのは大切なことだ。今となってはそんなことを思う。そしてランブルフィッシュと言えば、もちろん、コッポラ監督の映画を思い出す。ご覧になった方はわかると思うのだが、わたしはモーターサイクルボーイが好きで、最後のペットショップで動物たちを逃がすシーンなどは本当に好きで好きで仕方がない。あの作品を見ると、安心する。ああ、人間たるもの、こういった自然の一部であるのだと、命の尊厳を知り、伝えようとする人たちがいるのだと思うと、とても勇気が出る。勇気が出る、という言い方はかなり語弊があるが、それでもほっ、とする気持ちになることに変わりはない。さて、だいぶ脱線したので話を戻すと。そのベタを50匹も飼っている女性の話を聞いたとき、まどかさんは「こんなにたくさんの強い雄に囲まれているわたし」という心情をブログ主から察し、ゾクゾクしたのだという。確かに、強い雄、もしくは普通の雄でも、子供でもいいのだが、お世話をすることによって自分が上に立つ、といったような承認欲求は人間は本能的に持ち合わせているような気もする。それを拗らせるとおそらく、親離れ、子離れのできない状態に突入するのだとは思うのだが、何が良い悪いではなく根本的にそう言った事態は起こりうるし、やはり人間は作用しあって生きているのだなと心底、感じる。生き物はなぜ闘うのか。もちろん、それは命を繋ぐため、生き延びるため、子孫を残すためだ。だがそれ以上に、お互いの温度を確かめ、生きていることを分かち合うためではないのだろうか。相手に蹴りを入れるとき、ジャブでももちろんいいが、それは、相手の痛みを背負うことと同じだ。我々の皮膚が柔らかいのは、そして粘膜があるのは、お互いの命の揺らぎと弱さ、そして、暖かさを知るためだ。わたしはいつまでも、自分自身が揺らめいていたいのと同時に、相手の揺らぎをも深く、静かに、時として熱く、どこまでも感じ入りながら生きていたいと思う。

🩸ANATOMY GIRLS🩸
By MINAMI Stevens Photography

https://gadoliscurry.com/


あなたとわたし、
2人は出逢えた。
光と闇で、
絵を描きます。

あなたの物語、
聞かせてください。

コトバと写真で、
解剖します。

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