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愛があれば (月曜日の図書館144)

大学の公開講座を受講した。実技もあったので、講義をする先生のほか、お手伝いの学生たちも数人いて、質問に答えたり、進捗具合をチェックしたりしてくれる。

この講座の段取りが、ちょっと笑ってしまうくらいぐだぐだだった。先生は、学生がどの参加者を受け持つかを、講義が始まってから指示しはじめる。学生は、どこまで自分の判断でやっていいかわからず大半の時間ぼーっとしている。わたしの担当になった子は、逆に「これは何ですか?」と質問してきた。いや聞きたいのはわたしだよ。

しかも初めてではなく、もう5年くらい開催されている人気講座なのだった。初回からきっと何ひとつ改善されることなく、講座中は毎回あわあわして、でも終わってみれば何となくこなした感があり、次の年になるとまた同じ過ちをくり返すのだろう。

それでも5年も続いているのは、ひとえにマニアックな参加者と、彼らの知識欲を満たす先生の博識ぶりのおかげだ。前にも参加したと思われる人たちは、ちょっとくらいの不手際などものともせず、自分の知りたい情報をしっかり引き出し、大いに楽しんでいた。

愛があれば段取りなど問題ない。

図書館でやる企画も、これくらいゆるくていいのかもしれない、と思う。通常は、事前に誰と誰に根回しして、マスコミへの広報は期限を守って、当日は誰をどこに配置して、問題が起きたらこう対応して、と薄いコピー用紙も挟めないくらいギチギチに詰める。

おかげで当日は最初から最後まですべてが想定内におさまる。その卒のなさにこそ注目したい気もする。わたしが参加者ならアンケート用紙に、イベントの感想ではなく進行のスムーズさについて書き綴るだろう。

しかしそれを続けるうちに、愛がすり減っている気もする。

図書館で働く人はまじめな人が多いから、あらゆる仕事をぴっちり100%の完成度で仕上げようとする。自分で練り上げた台本にそって行動することを心がけるあまり、思いも寄らない反応をもらっても、対応できずに流してしまうことが多い。それが、ちょっぴり悲しい。

今年から欠員補充で新しい人が入ってきた。司書資格は持っているものの、それまでは全然違う仕事をしてきた人だ。

半年経ったとき、その人から、今日は雨ですねと言うときと同じくらいの温度で、まだ複写料金を払ってない人がいるんですよね、と告げられて危うく白眼になりかけた。

うちの図書館では、遠くにいて来るのが難しい人には、条件を満たせば郵送で複写物を送っている。依頼がきたのは確か4月、つまり丸々半年間未払いが続いていることになる。支払いが完了するまで物は送らないので、こげつきにはならないが、作った支払い書類がずっと宙に浮いたままだ。

報告されて慌てるわたしをよそに本人は、何で払わないんですかねえ、早くほしくないんですかねえ、と実にのんびりしている。衝撃だった。小心者のわたしなら、一ヶ月遅れただけで胃に穴が開く。

他にもその人は、カウンターで威圧的な利用者に当たったり、難しいレファレンスを受けたりしたときも、全然動揺せず、世間話などして丸めこんでしまう。気がつけば利用者は顔つきも穏やかになり、ほんのちょっぴりの情報が載っている資料を渡しただけでも、驚くほどありがたがっているのだ。

人と人との関係は、ときに正確な仕事ではないものによってあたためられることがある。

もちろん決められた仕事はこなさなければならない。けれど仕事は、わたしたちが思っていたような、眉間の皺をキュッと寄せて立ち向かわなければいけないものでもないみたいだ。図書館でずっと働いている人では、思い至らない発想。

幸い複写物の料金は、それから一ヶ月たって(!)無事に振り込まれた。

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