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僕らは「人材」未満

人材未満の労働力

 最近、「人材の売り手市場」という記事を読んだ。なんというか、少し笑ってしまった。
 ただまぁ、一周回ってその通りなのだろうなと思った。

 僕はニートだ。大分マシになってきたが本質的に引きこもりだ。身体機能に大きな支障は無い働き盛りの29歳だ。
 そんな俺だが、実を言うと働きたい。待て待て、本当さ。嘘じゃない。僕
 じゃあ何故働いていないかと言うと、働きたくないし働けないからだ。
 僕は「人材」ですらない、未満な労働力だからだ。

統計

 今の日本には就業していない人材はそれなりに多い。
 関連しそうな数値も含めて以下抜粋。

・非労働力人口4074万人のうち、就労を希望するが求職活動をしていない人の理由として「適当な仕事がありそうにない」と答えた人ー85万人
・失業者は207万人。このうち1年以上失業中の人は72万人
・非正規雇用のうち「正規の職員・従業員の仕事がないから
」ー208万人

総務省統計局 労働力調査

https://www.stat.go.jp/data/roudou/sokuhou/4hanki/dt/pdf/gaiyou.pdf

 総務省の統計である。とても面白いので是非ご自身で見てみて欲しい。
 因みに定義としては1カ月以内に求職活動をしている人が「失業者」であり、1カ月求職活動をしていない人が非労働力人工であるらしい。
 僕は上記で言えば一番上の85万人のうちの一人にあたる。

 さて、とても大雑把な計算ではあるが、以上の事から「正規雇用として働きたい」と考えている人口は500万人近くいると言えるだろう。
 本当に労働者側の売り手市場だと言うのであれば、待機労働者数の方が募集数より少ないということになると思うのだが、果たして総募集人数は500万を超えているのだろうか?
 調べてはいないが、まぁそんなことは無いだろう。なら売り手市場、なんて言葉が出てくるのか。

 これは採用する人事担当の立場に立ってみると分かりやすい。というかそこまでしなくても普通に思い至る人も多いだろう。

「雇いたいと思えるほど使い物になる人材は一握りだから」

 結局はこれだろう。

 先ほどの統計からは他にも色々と読み取れる。
 まず第一に、日本の4/11が非労働人口(主婦とか定年後も含む)であること。
 そのうえで65歳以下の非労働人口且つ「育児・介護・健康上」の理由で働きたくても働けない「正当な理由」の無い、言ってしまえば「働けるのに仕事を探しても無い」が1326万人。つまり総人口の一割強であること。
 他にも、未活用労働力の定義には、心に傷を負ってもう働く気も奪われた人々は含まれていない事。

 少子高齢化が進みお年を召された方々を支えるのが困難極まり無い事が明白な中、この体たらくなのが実態である。
 そして同時に人材不足を唱えて移民をとか考えているのも日本である。

 どうなのだろう、我が国の「働かざる者」は他国と比べて割合が多いのだろうか。
 働きアリの法則から言えば2割は怠け者が出るものらしいので、意外とそんなものなのだろうか。
 そこまでは面倒くさいから調べないが。

 なんにせよ、働いていない人は沢山いるのに何故人材不足なのか。

「雇いたいと思えるほど使い物になる人材は一握りだから」

僕らは「人材」ですらない

 企業にとって欲しい人材とは何だろう。
 別に人事の仕事をやったことはないので間違っているだろうとは思うが、予想される答えとは以下の3パターンではないかなと思う。

・労働者として習熟していて、高い給料を払ってでも自社に利益をもたらしてくれる人材。
・技量は要らないが複雑な業務を安価にこなしてくれる人材。
・真っ新で、うまく染め上げれば自社がいい様に使える可能性のある人材。

 一番上が転職において所謂「売り手市場」と言われる人たちで、真ん中が非正規雇用として使いつぶされている人たち、一番下が所謂「新卒」で最近は若干従順さが足りないと文句を言われてたりする人たち。
 そう、結局のところ一番上以外の求人募集というのは大げさに言えば「搾取しても文句を言わない労働力」とも言える。
 求人広告でよく見る「やる気のある人募集!」というのは「足りない給料は『やりがい』で補える人募集!」という意味にしか正直見えない。少なくとも「『やりがい』を感じさせてやるからうちの求人枠を争え!」といった自信は無いのだろう。

 ただ日本人は少し賢しくなり過ぎたようだ。
 どうやら必死に働いても望む報酬ややりがいは得られないらしい。かといってフルタイムで働くことを吞まなければもっと不利な労働条件しか無いらしい。
 労働とその対価に妥当性を感じなくなってきたというか、一言で言えば騙されなくなってきたとも言える。
 これは日本だけの話じゃないのかもね。「静かなる退職」とかも流行ってるし。
 ともかく、それらが不信感と絶望が働いていない理由の根源である人は結構な数いるのではないだろうか。社会を憎むか自分を責めるかは分かれるだろうが。

 だがこれは当然の流れだろう。
 資本主義というのは基本的に優秀な人に富を集めて、それを集中運用させることを是とするイデオロギーだ。その根幹から搾取が組み込まれているイデオロギーなのだから、労働者にその労働分の賃金が払われる仕組みではない。トップがアイデア料とか組織としての利益の元手料とか言って持っていくのは自然な流れである。
 さて、こう言うと考えの足りないタイプのコミュニストのようだが、僕は勿論違う。(別に共産主義自体をバカにしてるわけではない)
 僕は人間の能力には差があると思っているし、優秀な人に富が集中するのは当然だと思う。バカは黙っとけと言われても仕方ないだろうし、優秀な人には相応以上の見返りを用意することで動機づけをすることは大事だと思う。

 なら使えない人材は大人しく搾取されていろというのかというと、これもまた当然違うと思う。
 結論だけ言うと「むしろそれって喜ぶべき兆候だと思うよ」というのが僕の主張なのだが、多分まだ伝わらないので焦らず読んで欲しい。

人は増えても人材が減る理由

 ここで一度人が増えても人材が減る理由について、僕の考察を述べたいと思う。
 これに関してはまだちゃんとデータを取っているわけでは無いから体感的な物だが、多分まぁそれほど受け入れがたい話ではないと思う。

 題についてだが、一言で言うと「機械」と「科学」によって仕事を奪われているという話だ。
 最近だとAIにイラストレーターの仕事が奪われるというのが話題になっているし、古くは機械化により手工業が軒並み駆逐されたのもそうだ。この辺は分かりやすいだろう。
 科学というのは、言い換えれば属人性が極めて低く再現性の高い体系化ということだ。人が積み上げてきた長年の経験を科学理論として体系化し、それによって機械による代行を可能とする。

 これによってまず、単純に仕事がなくなる。
 お茶くみなんて自販機があればいらないし、沢山の書類がパソコンに入るからカバン持ちなんて必要ない。
 ソフトを活用すれば事務処理にそんな沢山の人数は要らないし、最適化された広告を打てば営業が無駄に足で稼ぐ必要なんてない。
 効率化と言えば聞こえばいいが、裏を返せばそれは習熟度の低い人材の無価値化である。
 勿論研修制度やマニュアル本の広がりなどで人材のレベルを効率よく上げる事は可能になった。しかしそれは同時に「出来て当然」となる。
 ビジネスマナーとか営業の基本とか表計算ソフトの使い方とか、「うちは学校じゃないんだから稼働時間外で自習しといてね」というのが、大企業の新卒以外ならよく聞く話である。

 その他、今の研修制度の話からも繋がるが、一人前になるまでのハードルが高くなる。
 言ってしまえば、この世に生まれ落ちた時点での性能が大昔から変わっていないのだとすれば、現代の人々は有史以来何千年の人の営みを20年やそこらで駆け抜けて現代に追いつかなければならないのである。
 特に最近の技術革新は目覚ましく、大人になっても新たに習得しないといけないことが多々出てくる。
 理系的な学習だけでない。文明人としての教養や人としての気位の高さも習得しなければならない。こちらは軽視されがちだが。
 そして出来る事が増えたという事は出来ない事が減ったという事である。即ち使える言い訳が減ったということである。
 携帯やメールで「夜だから連絡出来ない」が減った。ビデオ通話などで「遠くて会議出来ない」が減った。ハウツー本の普及で「学ぶ機会が無くて」が減った。コワーキングスペースが増えて「出先だから」が減った。ネットの普及で「知りませんでした」が減った。

生半可な労働者なんて要らない

 そうやって機械と科学によって初歩的だったり単純だったりする仕事が肩代わりされたり出来て当然になっていった結果、人間に求められるようになったのは「うまく機械を使役して成果を上げられる統率者」である。
 勿論それだけではないが、言われたことをイチイチ「自力」でなんとかしようとする企業や人材は淘汰されていっている。所謂DXだ。
 というより、それだけではないのだ。それ+αがあってこそ現代の労働者と言えるだろう。
 生半可な労働力なんて要らないのだ。それなら電気さえ食わせてたまにメンテさえやってやれば、文句も言わず正確に早くこなしてくれる道具がそこにあるのだから。
 技量は要らないが複雑な仕事で、機械化のコストが未だ高い物に関しては人間の方が安く済むからまだ人にお鉢が回ってくる。でも所詮はメイドが掃除機や洗濯機に変わっていくのと同じ問題でしかない。既にコンビニの友人レジやファミレスの配膳ロボも実用化の段階に入っている。
 つまり、人件費が機械より安い必要があるのだ。

 誰もが機械を使いこなす高価値な人材とは成れない。
 機械化、より正確に言うとその量産化と普及によって奪われる仕事数以上の新しい仕事を創出出来なければ、国民に十分な仕事を容易出来ないのは考えてみれば当然の帰結だ。具体的に言えばプログラマーや証券マン、YouTuberなどか。
 それを維持するには雑に言うと、好景気を維持し続け新しい産業を興し続けねばならなかった。日本はそれに失敗した。
 今のところアメリカはまだそのいたちごっこを辛うじて逃げ切っている。ヨーロッパの先進国諸国は追いつかれつつある。日本は単に早めにケツに火が付いただけだと思う。

仕事せずに安定した生活が出来るのなら

 さて、何故必要とされる人材が二極化しているかを考えてみると、やっぱり人材たり得ない労働者が沢山いるのは当然と言うか、仕方ない事だと思えてきた。
 ここで移民を受け入れるという話を考えてみれば、結局は日本人が騙されにくくなってきたから、立場の弱さから搾取しやすい人材を外から輸入しようという話とも解釈できる。移民は根本的な解決にならないと僕は思う。
 じゃあ何が根本的な解決なのか。多くの仕事を用意しようにも好景気を維持出来ていないのが現状だ。その好景気を維持する秘策があるのか。
 当然と言うか、そんなものは無い。好景気というのも結局格差があってこそ生まれるものだ。格差を縮めサステナブルとか言ってる時点で好景気というのは理論上相当無理難題だとすら思っている。まぁ詳しくないのであるかもしれないが。
 僕が言いたいのは「仕事なんて無くていいじゃん」である。

 待って欲しい。「これだからニートは」とか、「出たよベーシックインカム支持者」とか決めつけるのは待って欲しい。正直そう言われると何も言い返す言葉は無いんだけど、待って欲しい。
 先ほど実は敢えて「肩代わり」とか「お鉢が回ってくる」という表現を使った。
 元来、多くの人にとって労働とは出来ればお帰りになって欲しい存在である。関わらずに済むならそれに越したことは無い、厄介で面倒なことである。好きで仕事をしている人なんて一握りのはずだ。
 機械に仕事を奪われるという表現は確かに正しい。ただ面倒な仕事を文句も言わず肩代わりしてくれているというのも、人間は労働をしなければならないという前提を無くせばまた間違っていないはずだ。

 あらゆるしがらみを無視して考えてみた場合もし仮にだが、地球上全ての食料生産を一括管理して支給するとしたら、最低限人は餓死しないのではないだろうか。
 今度はそれを衣服や住居、医療各種インフラ物流などと拡大していったらどうだろう。供給は足りていないのだろうか?
 詳しくは調べていないが足りていないとしても諸々の利害を抜きにして考えれば人材の補填をすれば生産力が足りないという事は無いのではないかと思う。
 供給が足りないからこそ、優先的にそれを手に入れるための手段として貨幣経済があるのだと思う。極論誰もが欲しいと思った物を手に入れられるのであれば金に価値なんて無いのだ。
 ならば、もし生活に必須な物さえ機械の力によって供給が安定するのであれば、それによって余剰となった労働力は極論浮くし、浮いたらいいものだと思う。

 勿論このような全体主義的な手法は現実的は不可能に近い。何故なら実際には感情があるからだ。自分は頑張っているのに何もせずその恩恵を受けている他者の存在はどうしても受け入れ難いだろう。
 ある意味一番現実的な問題として、既得権益との利害の齟齬がある。以前大きな力を持ち時代の変化に置いていかれた人々は、何時だって必死に抵抗をする。それは決して悪ではない。
 他にもそのような世界になってしまえば世界は発展しなくなる。その世界は堕落に満ちたものに思えるかもしれない。ただこれに関してはあまり心配いらないと思う。人間は欲深いから科学でも文化でも発展を目指す欲しがりが耐える事は無いと思う。

 僕は経済学者でもなければ国際政治家でもない。
 今言ったような世界を実現できるとは思えないし、少なくともそのためにこうした方が良いという腹案も無い。
 ただ別の視点を提言したいのだ。

「働かざる者食うべからず」

 日本のことわざだが昔はその通りだった。働かない者を食わせる余裕は無かったからだ。
 でも技術の発展と機械の量産により一人当たりの生産力は格段に上昇した。余裕自体は少なくとも作り出せるのだ。
 であればその余剰分一人当たりの生産量を減らす余力、つまり労働時間を減らす余力が生み出せるだろう。
 それは本来人類にとってとても望ましいことでは無いのか。増えた自由時間で人生を楽しむも良し、自己研鑽を目指すも良し。自分という個を表現し見つめる選択肢が格段に広がるのだから。
 技術的には僕は不可能だと思わない。だからこれは感情の問題なのだ。

 労働の不公平感と、変化への恐怖と、停滞への恐怖。
 それらの払しょくのためには感謝経済への価値観の変革が必要だと思う。自分が良いと思った物に自分の資本と比較して適正な額を支払う。ある種、推しに沢山お布施するために働く、というような価値観。幾ら稼いだかではなく、幾ら何に支払ったか、価値を見出したかで評価される世界への変革。
 そして同時に、自分が食っていくためではなく自己表現するために働く世界への変革だ。
 何時の時代も、強制される労働は苦痛だが、目的のための労働は楽しいものだ。

まとめ

 働くということを生きるため必要不可避なものだという価値観からの脱却。
 機械によって仕事を肩代わりできるようになった人類にとって、次に望むべき社会はそちらではないのだろうか。
 きっと技術的にはそれは既に不可能ではない。きっとそれは感情の問題だ。
 でもその感情は、決して合理的判断の前に断罪されるべきものではない。
 しっかりと感情に向き合い、少しずつお願いと感謝によって許しを請おうと足掻くことこそが今の社会がすることだと僕は思う。
 そしてこの物と情報が真っ先に飽和し、縋るべき神も追い払った消費社会である日本だからこそ、僕ら若者はいち早くその訪れを予感しているのではないだろうか。

 食うために辛い労働に終始する人生に価値があるなんて僕は思えない。
 僕は自分が少しでも善く在ろうと足掻き考え続ける人生を送りたいと思うし、それが無理ならクソゲーをアンインストールする程度の感覚で死を選べるだろう。

 経済は人がより豊かな人生を送るためにあるものだ。
 格差の解消や環境資源により経済に行き詰まりを迎えつつあるなら、別の方法論を探せばいい。
 僕はそう思う。

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