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おかんはずるい!

 私の母が私にくれたのは、愛という名をかぶった支配だった。母自身もそれを愛だと思っていたのだろうが、実態は愛ではなく支配だった。愛と見せかけた支配。母は私の志向や恋愛感情まですべて支配しようとした。
 それは自分が不安だから。自分がいつも強度の不安症だから、、、。私の行動範囲を規制し、思い通りにならなかったら、可哀そうな母を演じ、時には泣きわめき、私が自由に人を愛したり、職業を選んだり、親元を離れようとすると、そのことが親不孝であるとののしり、私に自由に生きることに対する罪悪感を植え付けた。
 いつもいい母の仮面をつけながら、干渉をつづけた。過保護と過干渉で、私のはえかけた翼を、パッチンパッチンと切りそろえるのだった。
 私が悪い男に騙されて傷つかないよう、とんちんかんな妄想の中で、愛した人を悪い男に仕立て上げた。母に言われると私も自分の気持ちに自信がなくなり、急に醒めたり、誰を愛していたのか分からなくなったり、好きでもないのに、この人だったら母が喜んでくれそうだという男を一生の伴侶に選ぼうとしたり、もう何が何かわからなくなって、それでも、母とは離れて暮らしたくて全然好きになれない人とお見合いをしてしばらく付き合ったこともあった。
 母が介入してきたら、なんでも母の色に染められてしまって、自分の本心がわからなくなってしまうのだが、母を説得したり、反抗したりがどうしてもできなくて、母が喜んでくれることが私にとっては一番平和で楽だった。
 なぜだろう。多分幼いころに理由があるのかもしれない。母は私が幼稚園に入る前から、中学1年まで、水商売をしていた。父がもちろん色々なサポート(お店の掃除や従業員の募集や補充、母の送り迎えなど)をしていたからこそできたのだが、幼い私には、母は夜中まで働かされて可哀そうなひと、父は母を車で送って帰ってきたら、ビールをのみながらテレビをみていて、楽してる人に見えていた。そして、父は気が短く、よくちょっとしたことで怒鳴った。それは、私が悪いことをしたからとかの理由ではなく、自分がイライラしているときに、話しかけたり、甘えたりしたら、急に「うるさい!」といって、怒鳴ったりした。まだ、寝るころに父や母が枕元で絵本を読んでくれるような暮らしを憧れる年ごろに、私はいつも淋しかった。そして、夜中に目をさますと、父と母がケンカをしていて、母が泣いてたり、そんなこともよくあった。いつの間にか、私の中で、母は可哀そうな人、という図式ができあがってしまったのだ。
 まだまだそこには他にも、そう思う要因がいっぱいあるのだが、書きだしていたら、一冊の小説になりそうなので、今日はこの辺にしておく。とにかく幼い脳に、母は可哀そうなひとと焼き付けられた潜在意識は、母を悲しませてはいけない、母の言うことは何でも素直に聴かなければならないという図式に仕上がっていき、私は、反抗期もないまま、表面上のいい子に育った。
 母は店をやめてから、私たち(姉がいる)をかまうようになった。しかし、姉はそんなにいい子ではなかった。私より、真実を見抜いていたのか、上手に距離をとって、割と自由にしているように見えた。
「そんなことをしてたら、ろくなことにならない」とか、「親の言うこととなすびのつるに千にひとつの間違いもない」とか、ことあるごとに言われ、母の思い通りにしなかったら、「あんたは親不孝や」と言って、泣きわめいたりした。
 そんな母は私にとって重たい鎖で、しかし、それを言葉にすると非常に親不孝のような気がして、ずっと言葉にもできなかった。20代の後半に本当にやりたいことがあって、なんとか会社の寮に入って上京するという方法をみつけ、やっと親元から離れられた。
 しかし、母は私が寮をでて一人暮らしをはじめると、自分の都合でよく泊まりにきた。そのことをいやでもいやと言えなかった。今でこそ毒母という言葉が市民権を得たが、そのころの私にとって、毒母なんて言う言葉も認めることはできなかった。だって、母は、私が引っ越しをするというと、頼んでもいないのに、手伝いにきたり、東京へ来たときは服を買ってくれるいいお母さんなのだから。でも、それは、私が望んでいることではない。母がやりたいこと、それを、受け入れることしか許されなくて、母から離れてもやっぱり生きるのがくるしかった。重かった。
 そんな私も、母の喜ぶタイプの男と結婚をした。そしてふたりの子供にも恵まれて、たぶんしあわせに暮らしたと思う。しかし、その夫も支配的な人だった。子育てにも母は母流を押し付けてきた。しかし、その時わたしはやっと、自分の流儀をとおした。だって、あなたに育てられて自分らしく生きられなかったもの、それだけははっきりわかったから。
 幸い、私は実家から遠くに住んだので、母は母流の育て方を正月くらいにしか、私の子に実践することはできなかった。子育ては一日も手伝ってもらえなかったが、母の流儀を我が子には断ち切れて育てられたのは良かった。
 でも、私の潜在意識の中にある母はどうしてもかなりの影響を子供たちにも与えた可能性は強い。
 そして、子供たちが育って、夫とは別居しながらなんとか暮らしてるが、そこに、母が認知症になってやってきた。あんなことも、こんなことも、こんな気持ちやってんよと言ってもすべて忘れてる。今は昔住んでいた家も、水商売をしていたことも、私の昔の彼からの手紙の束を勝手に処分したことも、姉の夫に怒鳴られたと私に泣きわめき困らせたことも、実家を母の同意のもとで売ったことを、私が勝手に売ったと責めたことも、何もかもぜーんぶ、忘れてる。
いい気なもんだ。いい気なもんだ!
 もう、私は母に支配はされないが、時間を色々奪われて生活を支配されている。歩けなくなったら施設に入ってもらおうと思ってるが、今はデイサービスを利用しながら、近距離介護(私の住んでるマンションに違う部屋に今住んでもらってます)でがんばります。
だって、最初、サ高住に入ってもらったら、「私は何にもしてもらうことはないのに、こんな高いとこ、身分不相応やわ。もっと安いとこないの?」と騒がれて、幸いにも自分の住んでる同じマンションに空き部屋が出来て、サ高住よりずっと安いので、もう、これは運命だと、私も覚悟を決めたのだから。でも、なんか本当にあなたが重くて苦しい時があります。
もう、私はいい子でなくて、ずるい子になってうまくやりますが、、、。
それにしても、お母ん、なんか、ずるいよ!






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