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本『センスの哲学』を読んで。

この間、『センスの哲学』という本を読んだ。
自分にはセンスがあると思ってないし、だからこそ少しでもセンスが磨かれればいいなと思い、手に取ってみた。そしてこれを読んで感じたことをここに記す。


私は勉強が好きじゃなかった。特にテストは大嫌いだった。

今までその事に、自分の興味がないから、テストというもの自体嫌いだったから、授業中じっと椅子に座っているのが嫌いだったから…そんな風に考えていた。

数学よりは国語の方が好きで、その理由は、数学は完璧に答えが決まっているから。それがつまらなかった。

そして気付いた。
そうか、勉強が好きじゃなかったのは答えが予め決まっているからだ。
私は自分から答えが探すのが好きだったのに、答えが決まっているなら探す必要も追求する必要もないじゃないか。ただ暗記するだけなんてつまらない。それが原因だったんだと気付いた。
それは、制服を着ていくように、スーツを着ていくように、定められたものに乗っかること。それがつまらなかったんだ。

『センスの哲学』の中で、芸術は面倒や無駄な時間をいかに取るかが重要かについて書かれていた。大手アパレルで働いている時、大量生産、使いやすい服、値段、積み上げられ陳列された同じ服…そんなものを見ながら、人の豊かさとは何なのかをずっと考えていた。

洋服とは私は楽しむためのもの。気分を上げるもの。そう考えていたのに、アパレルで働いている時はその心が死んだようになり、従業員は平気で自分たちが買った商品を捨てていく。

ファッションって何なんだっけ?個性って何だっけ?アイデンティティとは…?そんなことを常に考えていた。

芸術は無駄であることに意義があると。働いていたアパレルの洋服には無駄がなかった。その無駄とは、楽しむこと。

『センスの哲学』に書いてあったが、朝コーヒーを淹れるのに、コーヒーメーカーで入れるか、じっくりと手でドリップさせて作るのか?生活の丁寧さを楽しむこと。
まさにこれまでの自分が疑問視してきたことや、大切なことが書かれているような気がした。

つまり無駄がなかったのだ。
勉強もそうで、答えが分かっていることに対してや務めてたアパレルの洋服や、それには確かに便利や簡潔さがある。でも無駄がない。いわゆる“味わう”ことがない。だからつまらなかったのだ。

自分の心と対話してながら、コーヒーを淹れたり、本を読んだり、そうやって自分なりの答えを見つけていく旅路が面白いのに、始めから答えが分かっているものに対して、どう心を通わせればいいのだろう。

今だったら自分なりに心を通わせる方法を探しだせたかもしれない。でも大量生産的な日本の教育で、それを見つけるのは難しかった。それに逃れることばかりに注力していた。

アパレル業界で、日本の縮図を見た気がした。大量生産された服、「かしこまりました!」という決まりきった返事。

コールセンターで働いていた時もそう。分からない事や答えられないことは「ごめんなさい。大変心苦しくて申し訳ないんですが分からないんです」などという人間的返答ではなく、冷たく「分かりかねます」の一辺倒だ。

そういうのって自分で考えて無いじゃん。自分に責任を持ってないじゃん。
確かに自分に責任を持たない方が楽かもしれないけど、一人間としてどうなのさ。何にも思わないのかね。

アパレル業界では、サステナブルを訴えながらも、そこで働く者は、使わなくなったものを平気で捨てるし、そもそも洋服はお気に入りを買うものなのに、欲しくもないものをみんな買っているという構図が我慢にならなかった。

物を買うこと。それは本当に必要な物なのか?
人生を生きること。
そこにこだわりはあるのか?味わえているのか?

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