自己紹介
まえがき
一番初めの記事にて自己紹介、
転職して1か月目に転職した理由と経緯、
を書きました。
今回は、読んで下さっている方も増えてきたので、語り切れなかった自己紹介をさせてください。
なぜ、エフアンドエムに入ったのか、お金に関わる仕事に就き続けているのか、発達障害専門FPをやっているのか、mojoプロジェクトを立ち上げたのか、僕のルーツに大きく影響されていると感じます。
生い立ち
宮崎県宮崎市に岩切家の長男として生まれました。
父方はずっと商売をしていて、母方は士族の出でした。
母方の祖母の家系は穆佐(むかさ)城の侍だったそうで、『宮崎県士族』という賞状に祖母はとても誇りを持っていました。宮崎の天ヶ崎城という城に残された文書に祖母の出自の家のことが書いてあるとか。
そんなバックボーンがあるからか、祖母と母からは常に
「人に施しなさい」と言われて育った記憶があります。
その後、祖母は養子に出されましたが、そこの家の育ての父(祖母の養父)は宮崎信金の専務理事だったそうです。
祖母の養父はかなりお金を持っていたらしく、西橘(新潟で言う古町)に土地を所有していました。
祖父は、宮崎の民放の報道制作部長で定年後に広告代理店を始めました。
東京から伯父が帰ってきて、プロモーターの仕事をしていました。
西橘の土地にビルを建て、テレビの仕事をしていたので、ブラウン館と名付けました。
またバブル真っ最中なこともあり、父方の方もかなり景気が良かったようです。母曰く、美味しい珈琲を飲むためだけに東京に行ったことがあるとかないとか。
父方の祖父は包装の会社(豊包装)を経営し、父もだんご屋(ひむか屋)を経営していました。
ひむか屋は今もあって、父方の伯父が経営しています。
カフェオレ大福、超美味しいのでぜひ!!!!!
そんなこともあって、僕自身も小さい頃は何不自由なく育てられました。
習い事も結構していたし、祖父母は自宅と隣接して住んでいて、たくさんお世話をしてもらいました。
祖父と伯父のイベント会社をしていたので、子供も参加できるイベントに無料で参加させてもらったり、色んなことを経験させてもらっていました。
超裕福という訳ではありませんでしたが、生活に困るようなことはなかったと記憶しています。
あの夏の始まりの日までは。
小学校6年生の夏休みに入るか入らないかぐらいの日。
辛かったせいか、受け止めきれなかったせいか、衝撃が大きすぎたせいか、記憶があいまいです。
インパクトのある出来事の記憶は、断片的になってしまうのかもしれない。
朝起きてからだったのか、遊びから帰ってくるように言われたのか、学校から帰ってきてからの出来事なのか全く覚えていません。
覚えているのは、
雨戸を全部閉めて、
じいちゃん、ばあちゃん、おじちゃん、家族みんながリビングに集まって泣いている姿。
寡黙なじいちゃんが、ごめんな、と泣いている姿。
小学校4年生の弟と1年生の妹が、
みんなが泣いているのに合わせて泣いている姿。
僕は現実感がなくて、泣くこともできないまま、祖父たちの謝罪を心臓をバクバクさせながら見ていた。
「これは現実なの?」と。
1999年7月、イベント会社を経営していた母方の伯父の会社が大きな負債を残して倒産しました。
負債だけでなく、これまで祖父母の持っていたビルで出していた利益や貯蓄は、ほとんど全て会社の赤字補填に充てられていたそうです。
そして父は、伯父の連帯保証人でした。
当時の連帯保証は今と制度が違っていて「何千万までの連帯保証枠」ではなくて、一度組んだら上限のない連帯保証。
負債の全額を保証しなければなりませんでした。
その時の負債は2億あったと聞いています。
落ち着くまで、昼間は外出できませんでした。
家にいることがわかるとまずいので雨戸をしていました。
夜間だけ外にでて、買い出しに業務用スーパーに行く。
どれぐらい昼間に家から出れない日が続いたか、全く覚えていません。
どんな風に終息したのか、本当に記憶にありません。
いつの間にか日常のフリをした、それまでとは違う日常が始まっていました。
父から呼び出され、
「弟や妹には言えないけれど、お前は長男だから状況を知っておいて欲しい。これから家は大変なことになるけど、お父さんとお母さんが守るから」
と言われたことを覚えています。
弟はこの一連の出来事を20歳になるまで知らなかったそうです。
僕は社会人になるまで、ほとんど誰にもこの話をしていません。
終息した後、実家は競売に出されて不動産屋が引き受けてくれる形でリースバック。
隣に住んでいた祖父母は家を売り、借家に引っ越しました。
持っていたビルも手放しました。
債権はサービサーに渡り、返済していくことになりました。
父は、だんご屋の経営から離れることになりました。
週末の外食はなくなり、専業主婦だった母は働きに出るようになりました。
祖父に何かあってはいけないと、一時期、祖父母だけにしないように家族の誰かが順番で祖父母と一緒にいるようにしました。
あの夏の日を境に、生活は一変しました。
ただ両親は、金銭的な不自由はあれど、変わらず愛情を注いで育ててくれました。
家族の誰も、伯父を憎みませんでした。
今でも仲良しで、年に一度は従妹も交えて食事をします。
祖父はビルを持っていたこともあり商店街の役員をしていましたが、商店街の方々から「これを足しにしてください」とお金を持ってきてもらったそうです。普通は背中を向けられそうなことなのに、有難いことです。
「次もお願いされたらまた保証人になってしまうだろう」と父は冗談を交えて言います。
誰かが困っているのなら助ける。
自分に余裕がなくても、相手がお金を持っていなくても。
どんなに貧しくても心は高貴であるように、と言われて育ちました。
両親には本当に感謝しています。誇りです。
僕は伯父の会社が倒産した当時悲しかったけれど、同時にあまりに非日常すぎて変な高揚感さえありました。
両親は生活レベルをかなり落とすことになったはずなので、大変だったと思います。業務用スーパーでの買い物は増え、外食は減りました。
僕は高校卒業まで塾は行かず(行けず)、滑り止めなしで国立受験のみ。
落ちたら浪人は厳しいので就職予定でした。
新潟大学は後期で受かったのでギリギリのラインで、今ここにいれてます。
大学も入学金から生活費まで全額奨学金でした。
その奨学金が原因で裁判所に出頭することにもなりました。
修学旅行も行かせてもらって、部活も出来て、大学も受かって、両親も十分すぎる愛情を注いでくれたので、恵まれていない訳ではありません。
それでも親族の会社の倒産は、連鎖的に自分の進路と、その先に影響を与えました。
僕も叔父のことは全く恨んでいませんが、この連鎖は事実です。
絶対に娘の世代に連鎖させてはならない。
お金のために、誰かが悲しい思いをしたり、申し訳なさを感じたり、自ら命を絶つことは絶対にあってはいけない。
お金で幸か不幸かは決まらないけれど、
お金がないことで選択肢は確実に狭まります。
お金がないことの影響は本人だけでなく、家族、子供の将来に渡って及ぶことを身をもって知りました。
そんな思いを誰にもさせたくない、
次の世代に貧困を引き継がせたくはない、
中小企業を守りたい、
という思いで、資金繰りや労務管理といったバックオフィスをコンサルティングするエフアンドエムに入社を決めたのでした。
(それでも就職後めちゃくちゃ腐るのですが、それはまた別の機会に。)
そんなバックボーンがあって、ずっとお金を守る仕事に就いています。
使命だと思っています。
プルデンシャルに転職したのも、個人の方にもフォーカスしてお金の大切さを伝えたいという思いから。
代理店に転職したのも、もっと寄り添いたいと思ったからです。
これまでの経験の全てが今の自分を作ってくれていると思っています。
発達障害と同様に、この経験も育ちも
この仕事に就いています。
保険の仕事が大好きです。
発達障害の人がもっと生きやすい社会になるようにする活動も大好きです。
保険の仕事と絡めて発達障害専門FPとして活動する中で、発達障害の人が困っている現状も見えてきました。
発達障害の就労をサポートすることで、お金や人間関係で困ることのないように自分の人生をかけて仕事をしていきます。
これからも、
次の世代に受け継ぐ心と、愛を紡いでいけるように、
お金を守る切り口で、自分が持てる手段で全力で走り続けていきます。
自己紹介またの名を暑苦しい自分語りに、お付き合い頂きありがとうございました。
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