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NikeCMの記事に対して頂いたコメントから考えたこと

先日、NikeのCMについて書きました。

こちらの記事は500人近い方にお読み頂きました。

自分の中では「向き合って書けた」と思ったところがありました。

この記事を私が所属しているADHDの方のオンラインサロン「たどうのうズ」のslacksにもあげているのですが、
そこで頂いたコメント非常に気付きがあったので、許可を頂いてシェアします。
※たどうのうズについては、今度詳しく書きます。

以下、頂いたコメントです。
改行等もいじらずに一部個人情報にあたるところを変更し、そのまま転載しています。


けんさんのnoteいつも楽しく拝読しています。
初めに私のスタンスをお伝えすると、けんさんやこの記事に「悪口」を言ったり、非難したり、「敵対」したりしたいのではありません。むしろ逆です。
この記事を読んだことで、差別に対する自分の考えを改めて整理する機会になったことに感謝しています。
その上で、この記事を読んで私が感じたこと、考えたことを、自分のためにもこの場を借りて文章化しましたので、もし読んでくださる方がいらっしゃったら、ご理解頂ければと思います。
前書きが長くなりました。
この記事を初めて読んだとき、私はすぐにハートマークのリアクションをしていました。
ところが、その後何度も読むと、だんだんにもやもやとした感情が湧いてきて、その他の皆さんのリアクションを見て、さらにもやもや複雑な感情になりました。その感情に名前を付けることができず、実はこの数日間悶々と考えていました。
再帰性の議論について、抽象的には全く異論がないですし、敵対より、理解を、という記事本来の、けんさんが伝えたかったことにも賛成なのです。なのになぜ、もやもやしたのか。
整理して考えると、人種差別という具体的な問題に落とし込まれた時に、もやもやを感じたのだと思います。
人種差別する側の「悪口」と、差別される側が差別する側に対して発する「悪口」は、同じ土俵で論じることが難しいと思うからです。
けんさんの言いたい事が間違いだというのではありませんし、発したいメッセージは結論部分であることも理解しています。
それでも、書き方、読み方によっては、傷つく人が出てくるのではないかと危惧しました。
再帰性の議論は、平等な立場の人間同士では、全く違和感なく成り立ちますが、私は、人種差別する側と、される側の置かれた状況は、決して平等ではないと思っているので、抽象論を具体的な場面で用いる以上、その不平等の現実を加味する必要があるのではないか、と考えます。
差別されたからどんなことをしても良い、というのではありません。殴られたからと言って、殴り返しても、傷害罪ですので。
それでも、「悪口」や「逆差別」という言葉によって、差別を受けた側がする批判、非難、抗議といったことが、差別した側の「悪口」と同列に論じられるのは、避けなければならないと思います。
残念ながら、一部の差別主義者の中には、差別を受けた側からの批判に対して、むしろ自分が差別されている、攻撃されている、と、自分の差別を正当化するためにこの論法を用いている人もいます。
人種差別の問題について論評する際には、差別を受けた側が感情的になることにも、一定の理解を示した上で、それを批評する態度が求められるのではないか、というのが現段階での私の結論です。
私がこう思うようになったのは、外国籍の夫と知り合ってからの経験が原因ではないかと思います。
同棲しようとして、物件を探していたとき、3軒連続で「同居人が外国人」という理由で(マジではっきり言われました)断られた時には、信じられない気持ちで、涙が出てきました。一番悲しかったのは、彼ががっかりしたり、悲しんだりしていなかったことです。この国では「あたりまえ」のことで、もう慣れたと。
怒りと、悲しみと。主に差別されているのは彼で、私ではないのですが、それでもこんな感情になるのかと、ショックでした。平気で差別してくる大家を軽蔑しましたし、不動産屋さんに対して冷静に抗議ができたかというと自信がありません。不動産屋さんが不快に感じたのであれば、私の言動は悪口で、彼を傷つけたのかもしれません。
私は彼と知り合う前から、差別はあってはならないことだと思っていましたし、職業柄、そういう問題にはセンシティブだと思い込んでいました。それでもそれは抽象的な理解で、差別された側の感情を想像することができていなかったと思います。
今は、自分の尊厳を保つために、声を上げること、時に感情的になってしまうことが、受け止められる世の中であってほしいと思います。その言動だけを外側から見て、「そんなに大げさに言わなくても」「やりすぎだよ」と言うことが、もしかしたら、差別を受けた相手をさらに傷つけるかもしれないことを、自戒をもって胸に留めます。
相手と対等に向き合うため、大きな声を出すことが必要なことがあります。向き合って初めてお互いへの理解のプロセスが始まるのではないかと思います。
長くなりました、読んでくださった方、ありがとうございました。


以上です。

まず自分の感情としては、コメントを頂いて本当に嬉しかったです。
だって、自分で言うのも憚れますが、良さげな記事だと思うんですよね。
本気で書いていますし、大枠も間違ってはいないと思っています。

そこに、ド直球で返してもらったことが嬉しく、またコメント自体も正にその通り。

このコメントを頂いて、下記のように返信しました。

black lives matterのような、差別に対して声を上げる、デモを行う行為は僕は賛成です。
分かりづらい立場になってしまいますが、差別主義者が変わるチャンスがあるのであれば、それをつぶしたくないという思いもあります。
でも、差別する側とされる側は対等ではないですね。される側が圧倒的に弱い立場にあります。
その視点を飛ばし理解しなければと簡単に結論付けたことは、自分が安全な立場にいるから言えることだったと反省しています。

自分が、安全な立場からの意見だったことに気付かされました。

こういう意見交換ができて、自身の理解を深められたことに感謝です!

このように安全にお互いを尊重しながら発言できる場を作ってくれたたどうのうズの運営のお2人にも感謝です。

皆さんは、どのように感じましたか?

何かのきっかけになれば幸いです。

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