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短編小説。 しんきろう。


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  夏の終わり、私は蜃気楼になる。

それは、きっと必然なことで、私は、また眠りについてしまうような、きっとそんな当たり前のことである。何もかも分かっていたはずなのに私はやはり夢を見ていたんだと思う。あの頃の私は偏頭痛と、妙に過敏な潔癖症のせいで、夏が最も嫌いだった。そんな汗が吹き出る夏に、私はもっと汗っかきなミラージュと出会ったのだ。そのミラージュは、雨の下で出会った。夕暮れの橋の下。雨が降りしきる夏の始まり。その男を前にすると、頭痛も潔癖症も忘れられる。私は、その男の前に存在できているだろうか。ひと夏の熱狂?長い旅路のほんの一瞬の蜃気楼?のような。2人はここで切り取られています。

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 今年も雨が多い。室内からも傘を介して、雨の匂いが染み渡る。しとしとぴっちゃん、しとぴっちゃん。雨の擬音がいくらでもあるこの世界で1人しかいない君と出会ったのはそんな頃だった。差し伸べてくれた手が私を濡れることから助けてくれた。ずっと囚われていたお姫様を解放してくれる勇者のようだった。だから、私はその前まで持っていた人生を捨てた。私を濡らしていたもの、私を押し潰していたもの。濡れ衣、弱み。それに伴う諸々の事務作業。淡々と過ごし、自分が消えかけていた頃。あの頃の私はそれでも生きることに固執していた。自我があるうちに、生きる術を手に入れておこうと必死だったのかもしれない。

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これから夏がやってくる。帰り道。雨が降りそうな予感が街を覆っていて、昼なのに薄暗い時。もう既に私は私ではなくなっていた。正しいと思っていることを否定され、いたずらに季節が流れる中、他人に流され、人混みに紛れた生活をしていた。何も言わなければ幸せそうに見える私も、本当は居場所も地位も何もかもなくして、置き去りの毎日を過ごしている。今更止まれないなぁなんて思っていると、やがて降り出した雨がとめどなく溢れ、私の手を引き、私たちを橋の下に導いた。後にミラージュとなるその人は、濡れていた。私はハンカチでその人を拭いてあげた。クシャッと笑う人で、ありがとうと返した声が心地よくて、一目惚れだった。すぐに止んだ雨が呼んでくれた奇跡なのだろう。私はそれから、その人と会うことが楽しみになった。

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 その人は、私と似ていた。
私はよく距離感を間違えてしまうので彼のことをあまり聞かないようにした。そして、先走ることで失うものもある。この距離感を保たないと、私たちはどこか離れ離れになってしまうと思ったのだ。そして、この距離感が私たちをとても居心地良くさせているのも事実だった。お互いを少しずつ知っていき、趣味とか好きなものを知り合っていった。ゆっくり時間が流れていき、自分の劣等感とかそれまでの後悔とかを忘れることができる時間になった。強いて言えば今までの人生もこの時間のためにあったのではないかと思えるくらい良い時間だった。
何度目かのある日、彼は私に提案をした。
2人でこれまでと違う人生を歩まないかと。
これも勢いが私たちの背中を押し込んだ。
まさに、遠くから見えていた幻想に足を踏み入れた瞬間だった。

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少し街から離れた住宅街。ご近所付き合いなんかもまだ残っているような閑静な住宅街に私たちは暮らし始めた。今までの私を完全に捨て、ありきたりなしあわせを噛み締める生活。彼が主夫となり、私は近所のスーパーでレジ打ちのバイトを始めた。ここには、私たちの素性を知る人は誰もいない。ただ若い新婚のように見える2人が引っ越してきて、生活を始めたと思うだろう。たぶんそれが一番幸せなことなのだ。2人だけの時間を過ごすこと。ゆっくりと人生を送ることがいまこの瞬間に必要な時間なのだ。これまで怒涛のように流れた人生をせき止めて、私たちは今日も2人で眠るのだ。

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 2人で過ごして3ヶ月くらいが経った頃。私たちは少し遠くの街へ出かけた。レジ打ちのバイトで嫌味な同僚がいることや、ゆったりした時間も流石に飽きてきたから、私たちは思い切って出かけることにした。久しぶりに出迎える街はかなり表情を変えていた。前まであったお店、そして、前にはなかったお店。テレビで特集されていた話題のスイーツ屋。立ち入り禁止になった思い出の溜まり場。思い出はまた変わり、新たな場所に生まれ変わることを知った。私たちは手を繋ぎ、その変化を受け入れ、映画館に行った。何を見るか決めておらず、とりあえず1番入りやすい時間にあった、どん底まで落ちた男が数多の試練を乗り越えて、相手のボスを倒す邦画を見た。ポップコーンとメロンソーダと、彼はホットドッグも買っていた。観終わった後の満足感と、街まで来れた開放感が、私たちをほんの少し自由にした。デパートで晩御飯を買って帰り、また家に帰る。明日からまた生活に戻る。しかし、1〜2ヶ月に1回くらい街に行こうねって話をして、彼もまたそれに同意してくれた。私たちはまた一歩距離感が縮まったように感じた。時間が有限なことなど忘れ、私は呑気にまた生活に戻っていった。

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 街に秋の匂いが漂い始めた頃。仕事へ向かう私に、彼は行ってらっしゃいと言わなかった。昨日から大喧嘩をしてしまった。街へ出かけることが雨のせいで出来なかったから。昨日の晩御飯があまり美味しくないと言ってしまったから?お互いに現状に満足がいってないから??
たぶんとてもすごい些細なことが重なり、私たちは喧嘩をしてしまった。それも少し厄介な。譲り合うことができないまま、仕事に向かい、お客さんのカゴを倒してしまったり、打ち間違えをしたり、散々だった。家に帰っても私と彼は口を聞かなかった。やがて仲直りはするのだろうが、時間をかけようと私は思った。1人で外食にでも行こうかとも考えたが、彼が作った昨日の残り物とか、カップラーメンもあったから、私は家で食べた。彼を不安にさせたくなかったから。
 翌日、まだ彼とは仲直りできない、しかし家を出る時、こちらを見ていたのは覚えている。あぁ、彼が仲直りをしたい時にする癖だなと思った。風が前向きに吹いていると思った。その日の仕事は、昨日とは打って変わって調子が良かった。お客さんから感謝されるくらい良い対応ができたし、何より私自身も楽しかった。帰り、私は彼の好物のミルクカステイラを買った。とても水分が奪われる代物で北海道民はよく知っているだろう。物はなんでも良い。ただあなたが好きなものを買いたかった。

黒煙。家のそば。火事。あれ?私の、私たちの家。ガス?私の好きな料理でも作ろうとしたのかな。ミラージュ?遠くから見えていた。この時間。ミルクカステイラが地面に落ちる。私は駆け出す、黄色いテープを超えて、その先へ。走る。まだ燃えているその先へ。叫ぶ。叫ぶ叫ぶ叫ぶ。夢?消防隊員に止められる。手を伸ばす。手を伸ばして、どうにか触れようとする。あなたに。あなたへ。あなたの手を取ろうとして、私は。私は。夢だ。明るい。火。燃える。燃えた。お水。お水を。そうだミルクカステイラは水分を奪うんだ。お水を。
これは、ミラージュ。幻の中。逃げたい。どこへでも。現実が押し寄せる。重たい。とても重たい。生存者は、、昨晩発生した火災……、遺体は……、原因は?  よく分かっていない。放火?タバコの不始末?
何もかも。何もかも、

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消え去った日々。消えた家。

夏の終わり。ミラージュは消えていた。
私はまた、前の私に戻り
やがてしんきろうになった。


おわり。


原案、参考 乃木坂46 『逃げ水』

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あとがき
逃げ水のYouTubeのコメント欄に、
「何回見てもわけわからんくて好き」
というコメントがあった。たぶん僕がこの世で一番好きなフレーズはこれである。言葉で説明ができない良さ。味わった人にしかわからないものが存在する。そんな作品を作りたいと思った。話の内容は逃げ水とほぼ関係ないが、言いたいことはたぶん同じだと思う。
人生の、また夏が持っている切なさ、儚さ。
人と人がめぐり合ってまた別れる。

日差しに切り取られた

から、始まるこの曲は、きっと世界から少し隔離されていて、永遠にそこにいることも出来るのだろうけど、人並みの生活。人から離れた生活。どっちを選ぶかは個人の自由だなと思った。どちらも素晴らしいし、何より選択することが最も偉いことだと思うのです。読んで頂きありがとうございました。

この物語はフィクションです。

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