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掌編小説:不確かな境界線

 ----へそのないミイラ。始まりの人のミイラが存在する世界…。

 私は食卓テーブルに腰を掛け、テッド・チャンの『息吹』を読んでいた。この本は短編集で、読んでいたのはオムファロスというタイトルの話だ。面白くて一気に読み終えると本を閉じた。

 「ねぇ母さん、始まりの人のミイラって本当にあると思う?」

 母は肉じゃがを盛りつけながら、笑う。

 「あるのかなぁ…たぶんそれフィクションだと思うよ。あったら見てみたいね」

 肉じゃが、味噌汁、ご飯をテーブルに置くと、母は私の向かいの椅子に座る。そして一緒に食前の祈りを捧げた。

 私の父は神奈川県出身で33歳の時、スキューバダイビング中の事故で亡くなった。それからというもの私と母は、母の出身地である沖縄で二人っきりになる。

 私達家族はカトリックだが、母方の近しい親族はみんな無神論者だったからだ。祖母には特に冷たい態度をとられている。
 だからといって神奈川にいる父方の祖父母は、金銭面で苦労している弟夫妻の面倒を見ており、頼りづらかった。

 私と母は沖縄に住むことに決め、祖母に冷たくされても笑顔で接し、宗教の自由を認めてもらうため時々顔をだしていた。
 私は今のところ家に上げてもらったことすらないが、いつか理解してもらえると母は信じている。

**

 「キャー」母の悲鳴とガタガタという物音が家の中で響く。

 夕食を食べ終わり、部屋に戻っていた私は母のもとへと急いだ。


 すると黒い覆面を被っている背の高い男が、母の背後から喉元に手を回し、ナイフを当てている。母を人質にとられたのだ。

 ----泥棒!要求は金だろうか?身代金になるような大層なお金はこの家にはない。

 「母親を殺されたくなかったら、しんこうを捨てろ」

 覆面の男は繰り返しそう言った。
 ”しんこう”とは何だろう、異常事態で混乱している頭を必死に整理する。
 
 ----もしかして信仰か?

 私は試しに言い放った。

 「私は信徒です」

 「その信仰を捨てろ、そしたら母親を開放する。さもないと殺すぞ」

 私は意味がわからず余計混乱するし、母が刺されないか気が気じゃなかった。もし母になにかあったら私は孤独だ。
 恐ろしくて握りしめている掌が汗で湿っているのがわかる。
 沈黙のなか、居間で対峙した状態がさらに数分続く。時計のカチカチという音だけが静かに時を告げていた。
 私は思わず息を吞む。

 ----信仰は捨てられない。

 私にとって信仰は父の形見のようなものだった。

 「逃げなさい」

 恐怖で声を出せなかった母が、勇気を出して声を振り絞ったのだ。振り乱した髪が顔にかかり、母の表情まではうまく読み取れなかった。
 しかし覆面の男がそれを遮るように言う。

 「逃げたら殺すぞ。父親から譲り受けたロザリオと聖書を捨てろ」
 
 私は愕然とした。途方に暮れて身動きが取れない。

 ----この男はなんでそんなこと知ってるの。

 状況打破する唯一の道は信仰を捨てること。
 しかしそれだけはやってはいけない。父の形見、家族の絆、私にとって信仰とはそういうものだったからだ。 
 自分一人では手に負えない状況に動悸も早くなる。
 軽い眩暈に襲われた時、走馬灯のように少し前の記憶を取り戻した。

 ----そうだ、私ベッドで寝てたんだ。これは…夢だ。そうだきっと夢。

 そう思うと混乱は消え去り、ベッドの中で汗をかき、悪夢にうなされている自分が意識できた。
 
 「これは夢だ。夢でも母さんを傷つけることは許さない」

 私は強気でそう言い、覆面の男を牽制した。
 ベッドに横たわっている体を意識できる。

 ----目を開けろ、私。そして体を動かすんだ。

 意識はできるが、瞼や指先すら動かすことができなかった。
 覆面の男と母の構図も変わらず、母は未だ背後から喉元にナイフを当てられている。
 完璧に意識を取り戻そうとする私は、酷くうなされ、冷や汗をかいた。



 ----動けない……噓でしょ、もしかしてこれが金縛り。

≪ おわり ≫



 ご一読ありがとうございます。他の作品もいかがでしょうか。


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