掌編小説:一人の僕
小学校低学年ぐらいだろうか、男の子が図書館のトイレから出てくるとポケットをまさぐりながらカウンターに近づいてきた。
「ない、ない…ない」
「何か無くしたの?」私は本に蔵書印を押している手を休め、男の子に声を掛ける。
男の子はポケットに手を突っ込んだまま、俯いていた顔を上げた。
「最近、怖いことがあるの…」
「怖いこと?」私は思わず聞き返した。
「そう、今日もね、ポケットにハンカチを入れていたはずなの、なのにね、探したらない…やっぱり僕はもう一人いるのかもしれない」
そういうと男の子は”ムンクの叫び”のように両手を頬にあてた。私は作業中の印鑑や本をカウンター下に片付ける。
「近くに落としたのかな、お姉さんと一緒に探そうか」
私は椅子から腰を上げると、少年のもとへと歩いた。屈んで目線を合わせ問い掛ける。
「トイレに入る前はどのへんにいたの?そこにあるかも」
少年は目を見開き答えた。
「違う…落としてない、もう一人の僕がポケットから出したの。たぶん、お家にある」
「そう…お母さんと一緒に図書館に来たの?」私は男の子の返答になんと返せばいいかわからず、話題を変えることにしたのだ。
「そうだよ、今、下にいる」
この図書館は二階が一般書で、三階が児童書なのだ。男の子は、お母さんが本を探す間、三階で時間を潰しているのだろう。
「僕はね、絵本が好きなの!絵本が見たい」
男の子以外に利用者おらず閑散としている。私は男の子について歩き絵本コーナーへと向かった。
男の子はもうハンカチのことなど、どうでもよくなってしまっているようだった。
「勉強の本はね、好きじゃないの。読みたくないから」
ポケモンの絵本を手に取ると、ページをめくりながらそうつぶやく。
*
絵本を三冊ほど読み終えた頃。トートバックを下げた、パンツスタイルの若い女性が三階に上がって来た。私を見ると少し慌てた様子で、髪を耳に掛ける。ほのかにムスク系の香水の匂いがした。
「すみません、うちの子お仕事の邪魔してましたか?」
「いいえ、人もいないので逆に相手してもらってました」私は手を振る身振りを付けながらそう答えた。
「優、今日Scratchの本借りたいって言ってたでしょ?もう探した?」
男の子は慌てて絵本を棚に戻しながら答える。
「ううん、まだ……Scratchの本借りられてるみたい」
私は優という名の男の子が、咄嗟についた嘘に気づかない振りをした。
母親は驚いた様子で言う。
「えっ、ほんと!図書館の人に聞いてみようよ。…すみません、どこにあるか教えてくれますか?」
私は「ご案内します」と短く答えた。
Scratchとは子供向けのプログラミング教育に使う言語のことだ。私は本棚まで親子を先導する。優はさっきより元気がない様子で、母親に手を引かれながらついて来た。
「こちらです」
本を四冊、棚から取り出し手元で扇状に持ち、表紙が見えるよう母親に見せた。母親は嬉しそうに言う。
「たくさんあるじゃん!優、じゃあ好きな本選んで」
優は表紙の装画が人気ゲームのマインクラフトの本と、絵本のように可愛らしいイラストの描かれた本の二冊を選び、私の手から引き抜く。
母親はそれを優から受け取った。
母親の言う選んでいい好きな本は、あくまでScratchの本の中からだったのが気になった。
母親は受け取った本を見比べて言う。
「マインクラフトだ!優、良かったね。すいません、この本借ります」
「はい、カウンターで貸出しますね」
私は母親から本を受け取り、カウンターへと戻った。
**
「こちら二冊で、返却日は二週間後になります。一人五冊借りれるので、絵本も一緒にいかがですか?」
私は優を見て言う。この子は自分が読みたい本をまだ選んでいなかったからだ。しかし返答したのは母親だった。
「うちの子、本読むのに時間がかかるんですよ。だから二冊で大丈夫です」
「僕、勉強の本好きだから、この本でいい」優は母親の服の裾を掴みながら言った。
「そっかぁ。じゃあ本返しに来る時に、好きな本借りていってね」私は微笑み、声掛けをした。
***
----そういえば優という男の子は、もう一人の僕がいるかもしれないと言っていた。もしかしたらやりたい事をできないでいる自分を指しているのかな…。
なんとなくそう思いながらカウンター下から作業中の本を取り出した。
≪ おわり ≫
ご一読ありがとうございます。他の作品もいかがでしょうか。
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