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大人の恋愛小説・マダムたちの街Ⅱ-2

第二章 その2 アプローチ

 平凡な日が帰って来た。ぼんやりしている内に季節が一つ変わった。
 ある時、僕は谷さんに呼び出された。改まって話があると言う。場所は麻生さんのマンションだ。

 気乗りしないものの、谷さんの誘いなので出かけて行った。
 改まってと言うので、一応Tシャツの上にジャケットを羽織った。

 この町を縦断する川が蛇の形に蛇行している。その頭の部分に当たる河川敷を見下ろすように建っているのが麻生さんの住むマンションだ。
 町全体が丘の途中らしく、坂を上って行くとマンションが見えた。七階建ての一番上の階。古い建物だ。エレベーターを降りて通路から下を望むと、都心のビル街が箱庭のように小さく見える。

 チャイムを鳴らす。入ってと言う声が聞こえた。
 開け放たれたドアを通り、中へ入る。居間を抜け襖の部屋を開ける。二間続きの広々した和室に長椅子が置かれ、そこに麻生さんが横になっていた。
腰を痛めてこんな格好でごめんなさいと言う。
 麻生さんはムームーのような部屋着を着て髪を団子にまとめ上げていた。七十代と聞いていたが四、五十代に見える。

「お先に飲んでましたわ」
 手許にジュースのようなグラスがあった。
 どうもシャンパンらしい。
谷さんは?と聞くと、「彼女、今日ここには来ないわ」と言う。
「えっ」
 窓に向いたソファーに恐る恐る腰を掛ける。
 一体何の用だろう。暫く世間話をする。麻生さんはどこか近寄りがたい雰囲気があって僕はちょっと苦手だった。谷さんがいればずいぶん場が和んだだろう。
 麻生さんはインターホンで誰かに何か命令していた。
 まもなく、二人の中年の女性が入ってきて、僕の前のテーブルに重箱を置いた。
「そんなものしかないけど、良かったら食べて」
「ハイ…」
 蓋を開ける。丁寧に作られた懐石料理が仕切られた場所にそれぞれキチンと収まっている。
「遠慮しないでどうぞ召し上がって」
「ハ、ハァ、じゃ遠慮なく」
 一つ一つ素材が分からぬまま口に運んでいたが、流暢に話す麻生さんの言葉に急に味がしなくなった。
 僕は麻生さんの言葉の意味を頭の中でまとめながら、静かに箸を置いた。

「ねぇ、あなた独身だよね?」
「ええ」
「気になる人はいるの?典子さんとは別れたんだよね」
「ハァ」
 てっきりお見合いの話かと思った。
「結婚する気はあるの?」
 来たか、と身構えた。
「いやぁ、その気は…」
 ないです、と言おうとしたら麻生さんが言葉を被せてきた。
「谷さんはどう?」
「えっ?谷さんに娘さんがいるんですか?」
 聞いたことがないので率直に尋ねた。
「何言ってるの、本人よ」
「へっ…」
 僕は目を白黒させた。口が回らず、やっとのことで言葉にした。
「あの人幾つですか?確か…」
「もうすぐ70歳」
 僕は吹きだした。いやぁそれはない。
「僕は41ですよ。30歳も違うじゃないですか。本気なんですか」
 つい早口になって舌を嚙みそうになる。
 麻生さんは目の前のハエを振りはらうような仕草をしながら言った。
「結婚に年の差なんて今時関係ないでしょ?年の差の大きいカップルなんで幾らでもいるわ」
「僕を馬鹿にしているんですか?」
 僕はいきり立った。まぁまぁ、と麻生さんは僕をなだめた。
 僕が立ち上がったので麻生さんは僕の両肩を叩いて座らせた。
「谷さんがあなたと結婚したがってるのよ」
「ふぇー」
 胸がドクドク鳴って心音が高まった。
 僕は落ち着こうと自分に言い聞かせた。
「何で…何で…僕と」
 そんな目で見られていたのかと、失望ともショックとも取れない複雑な心境になる。

 いや、ここは冷静に考えよう。
「つまり、目的があるんですね」
 麻生さんはニヤリと笑って「賢いわね」と返した。僕は次の言葉を待った。
「谷さんは、これまでしたことのないことを、残りの人生を賭けてやってみたいと言っているのよ」
「それが結婚だと?」
「いえ、結婚は付け足し。子供を育ててみたいんですって。死ぬまであと20年。今子供を貰っても20年経てば成人よ。一人の子の親になってみたいと、そう願ってるの」
「しかし独り身でも、養子は貰えるんじゃなかったですか?」
「養子縁組には二通りあってね。普通養子縁組と特別養子縁組。普通の方は独身でも出来るけど、特別の方は両親がいないとダメ。産みの親の縁を切って、戸籍をちゃんと入れるからね」
「何で僕が?」
 沈黙の後、麻生さんは言葉を絞り出すように区切りながら話した。
「あの人、ずっと相手を探していたのよ。7,8年になるかしらね」
 麻生さんは谷さんがこれまで候補に挙げてきた人の説明を始めた。
 主に50代、60代の早期リタイヤか退職間際の人を探していたが、彼らの第二の人生計画ははっきりしていた。悠々自適な生活をすることだ。すでに彼らは疲れていた。一緒に子育てをするエネルギーなんか、ない。

 それで僕に白羽の矢が立ったのか。
 30代は若すぎて申し訳ない。それで40代、それも色々なものに染まっていないフレッシュな人がいいということになったと言う。

 理由が分かった僕は勝手に納得した。そして沸き起こってくる空想に心を奪われていた。
 それは、僕と谷さんの新しい未来だった。僕と彼女と、まだ幼い誰か知らない少年か少女が一つの家で暮らす映像が浮かんできたのだ。
 まるでドラマのような、楽しく明るい、時にはドタバタ劇のような。それはどんどん膨らみ一人歩きして行く。なんと楽しい生活だろう。

ふと我に返り、麻生さんに問いかけた。
「でも、僕生活力ないですよ。いいんですか?」
「もちろんあなたには働いてもらうわ」
 毅然とした言い方に、僕はうろたえた。
「そんな。急に働けと言われても…」
「あなたに働く意志があるなら、どんな方法でもやり方はあるわ」
 僕のうろたえ方が普通じゃないのを見て麻生さんは言った。
「まぁとにかく、あなたも谷さんが嫌いじゃないみたいね」
「いや、嫌いじゃないも何も…、あまりのことに気が動転しているだけですよ」
 この話はここまで、とにかく食べて頂戴、と麻生さんは進めたが、目の前のお重はすでに魅力を失って目の前にあった。

 その後麻生さんは具体的な話をした。これはプロジェクトだと思って欲しい。
 自分が財政を全面的にバックアップする。資金はある。麻生さんは谷さんを信頼していて、彼女の願いを積極的に叶えてやりたいと言う。それほど恩のある人だと。
 僕については、あなたは自分自身をどう考えてるか知らないけど、私たちから見れば可能性のある人だと思う、と語った。

 つまりこれは一種のスカウトなのだ。芸能人を街角でスカウトするプロがいるのはよく知られている。あれと同じで、谷さんは町を放浪しながら人を探し求めていたのだろう。

 こんな、40代にもなってまるで何も持っていない白紙のような人間。だがそこがいいと彼女は踏んだのだろう。
 普通の生活とはほど遠く、世間のしがらみから離れ、自由という名の曖昧さに泳がされていた。自由の大海の中にはやっぱりこういう遠洋漁業の網があったのだ。

 翌日、僕はフラフラと谷さんと初めて出会ったあのビルの外階段前の広場へ出かけて行った。マス目のようなベンチの間に挟まるように腰掛けぼうっとしていた谷さん。だがそこに彼女はいなかった。

 ビルの中の施設に出たり入ったりしながら時折そのベンチへ戻って来る。
午前十一時、谷さんがやって来た。物陰に隠れて彼女を見守る。
 十五分後、何人かのマダムがやって来て楽しげに話をしている。彼女らが去って谷さんが歩き出す。そっと後をつける。

 おい、お前。これはストーカーだぞ?胸の中で自分の声がこだまする。いや、違う。
 これはリサーチだ。僕は彼女に選ばれた人だ。彼女がどんな人か知るための純然たるリサーチなのだ。

 一日足を棒にして彼女の後をつけた割には大した成果はなかった。
その日谷さんが足を運んだ所は、百貨店の工芸品展、同じフロアーにあるシニア向けブティック。そこで地味なカーディガンを買い、目抜き通りの蕎麦屋へ入る。書店で雑誌を買い、午後二時に商店街のスタバに消える。僕も入って遠くの席で観察していたが、4人でお茶を飲み歓談していた。一時間後そこを出、近くのデパ地下で食品を買い、地下鉄の駅に入っていった。多分部屋へ帰ったのだろう。

 一日探偵のようなことをしてつけていたが、別に怪しい行動も変な人との付き合いもない。その夜、僕のスマホに彼女からのメールが届いた。
「一日ご苦労さん。あなた、何していたの?(笑)会いたいなら、直接私にそうおっしゃい」
 しまった。見破られていたのか。
 どこで気づいたのだろう。谷さんも人が悪い。

 二日後、待ち合わせて谷さんと会うことになった。
 駅前の半地下のカフェで、僕は待ち受けていた谷さんと会った。
 先日はどうも、と会うなり言うと谷さんはどういたしまして、と涼しい顔をしている。
 ここは先手を打つしかない、と僕は思った。
「麻生さんに聞きました。谷さんが…僕と結婚したいと言っておられると。それは事実なんですか?」
 谷さんは指の爪をいじっていたが、指を膝の上に置くと僕を見て、
「ええ、本当よ」とじっと僕を見た。
「あなたからそう言って欲しかったなぁ」
 僕は言った。何だか頬が火照ってきた。

「いつからそんなことを考えていたんですか?」
 谷さんは僕と視線を合わさずに遠くを見ていた。
「あなたと結婚したいってこと?‥うーん、出会ってからすぐ、かしら」
 僕はずっこけそうになった。
「じゃあ一年近く前からですか?」
「そう。つまり一目惚れ」
 シャアシャアと谷さんは言う。一体この人は何者なんだ。
 谷さんは僕に封筒を差し出した。
「これ私の経歴よ。嘘は一切書いてない。読んでみて」
 封筒を受け取って中から一枚の便せんを取りだし、僕は目を通した。
 読み終えて、フーンと思った。
「割と普通の経歴なんですね」
 本当にザーッとだったので、それしか言えなかった。
「二度の離婚と、父親の創業した会社の倒産と、身寄りのない境遇が普通ですって?」
 挑発的な言い方だな、と思ったが谷さんの顔つきは優しかった。
「僕だって身寄りがないのも同然ですよ」
「あーら、あなたはお父様もお兄様もいらっしゃるじゃない」
「まぁそうですけど」
 どこまでも他人行儀だ。だが、このくらいの距離が丁度いいと思ってしまう。
 そこから突っ込んだ話題に移行する。
「どんな子を養子にしたいんですか?」
「今度一緒に見に行きましょうよ」
「どこへですか?」
「養護施設によ」
「へぇ」
「何も知らないの?呆れるわね」
「普通は知りませんよ」
 お互いに無言になり、ボーッと外を見る。半地下のここからは人の歩く下半身しか見えないが、突然思い出したように同時に喋る。
「あっ…、どうぞ」
「あなたから」
 谷さんはサッと引く。
「言いにくいですが、夫婦になったら、あの、一応肉体的な関係はどうするんですか」
 僕が尋ねた。
「何を言ってるの」
 少しして、
「そんなのあなたが決めればいいじゃないの。主導権はあなたにあるんだから」
 いやー、と僕は考え、「想像できんのですよ。いや、お互いに」
「なら、何で夫婦になってもいいと思ったの?」
「まだ考えてる最中です」
「そうなの…」
「気持ちが傾いたのは、養子と三人で作る家庭というものに興味があったからです」
「そうか」
 しかし僕は少なからず衝撃を受けていた。てっきり肉体関係は遠慮するだろうと思ったからだ。いや、どう考えても無理だろう。だがそれを曖昧にするのは、偽装結婚ではないとしたいためか。
 次第に核心に迫る。
「麻生さんが言うには、僕に仕事をして欲しいと」
 ああ、と思い出したように谷さんは呟き、
「それは口実よ。麻生さんが仕事を用意してくれるのよ」
 と事もなげに言った。
 仕事とは何かとオウム返しに聞いてみる。すると麻生さんは富裕層で、財団を持っている、僕にその中の一つの役職にしてあげてもいいと言うのだった。財団とは何だったろう。記憶を辿ってみるが思い浮かばない。後で検索してみよう。

 しかし何という事だろう、このサバサバした会話は。これが今から夫婦になるかも知れない人間の会話なのか。まるでビジネスではないか。
 いや、ビジネスなのだ。確か前に麻生さんが「プロジェクト」と言った。
僕は用意された豪華客船に乗り込み、世界一周しようとしているのだ。こんな幸運は滅多にない。
 ただし喜んでばかりもいられない。なぜなら船長とスポンサーが高齢者だからだ。
 つまり老朽化した船での旅ということになる。長い航海は耐えられず、座礁したり沈没してしまう可能性もある。思わずぞっとした。

 あれこれ考えてひどく疲れてきた僕は「用を思い出したのでこの辺で失礼します」と言って立ち上がり、その場を後にした。
 後で考えるとかなり失礼だったに違いない。谷さんはさぞ驚いただろう。

 その後、谷さんは僕に返事を迫らなかった。何事もなく二週間が過ぎた。
 それをいいことに、僕は毎日機嫌良く過ごしていた。何を見てもこれからの三人の新しい生活が思い浮かび僕をニヤけさせた。僕の目の中には輝かしい未来が映っていた。

 僕は完全に浮かれていた。急に一人の少年か少女の親になれるのだ。
一体どんな子だろう。想像は膨らむ。
 親としてどんな風に接しどんな言葉をかけてやればいいのか。一人で考えていても悩むだけなので、書店へ行って本を買い込んできた。育児書、子供の心理、親業などだ。十冊近い本をリュックに詰め込んで、ふと思った。
 僕はこういう人間だったのだ、と。

 その週の週末、谷さんに彼女の部屋へ誘われた。
 週二回、土曜日にカレーパーティを開くそうで、それはちっとも知らなかったが、とにかく駅の裏手にあるマンションへ初めて行ってみることになった。

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