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大人の恋愛小説・マダムたちの街Ⅰ-1

第一章
その1 二人の女性との出会い

 都会の空間にはめ込まれた巨大なビル郡。
そのビルの間を繋ぐ通路や階段の間に、思いがけない広場やちょっとしたベンチがある。
 風も吹き込まない、適度に日当たりの良いそれらは絶好の休憩所だ。何人かが落ちあっては休む憩いの場でもある。

 僕が一人の女性と出会ったのはそんな商業施設のビルの谷間、通路と通路を結ぶ広場の一角だった。
 勤め人がひたすら前を向いて行きすぎる植栽の間のベンチだった。
 まるでそこに何年も座っていたかのように女性は周りに無関心だった。遠くを見ながら隠し持つような仕草で吸っていた煙草をフーッと吐き出し、対角線上のベンチに座っている僕に声をかけたのだった。

「ねぇ、お兄さん。その上着いいねぇ」
 気持ちのこもった温かい声だったので思わずその方向を向いた。
 その人は決して若くない、いや若く見積もって60代、もっとだろうか。淡い色のストールを首に巻き、布の帽子を浅く被っている。その顔はどこかで見たことのある女優のようだったが、思い出せなかった。

 僕が着ていたのは、背中に豪華な刺繍が施されているジャンパーだ。いわゆる、スカジャンというやつである。昔父親が着ていたもので模様は虎と竹林だ。父親の部屋に乱雑に積まれていたやつを適当に選んで着てきたのだ。

 僕は面倒臭いのが先立って、一言答えて去ろうと立ち上がった。しかしその後かけられた一言に、僕は立ち止まった。女性はこう言った。
「たしかあなた、この近くのコンビニで一時期バイトしてたわよね」
 その通りだった。もしかすると常連さん?顔を見るが記憶にはない。
 女性は微笑むと突然名乗り出した。
「私、谷ひとみっていうの。覚えやすい名前でしょ?お兄さん、あなたは何て言うの?」
 誘導されたように僕は答えた。
「中原‥中原和人と言います」
「よろしくね」
 女性は片手を差し出したが、僕はさり気なく視線を反らしてごまかした。
 なおも女性は話しかけた。
「あなた、よくここを通るじゃない。いつも変わった恰好よね。いつかは袢纏着てたわね」
「は、ハハァ…」
 袢纏とは綿入れの短い羽織のようなものだ。
 誰にも見られていないと思っていたのに、注目していた人がいたとは冷や汗ものだ。
「この近くに住んでるの?」
「ええ、まぁ」
 まるで誘導尋問のようにスラスラと僕は答えてしまう。これはまずいと気づいて立ち上がる。急ぎますので失礼します、と言うと「アラ!」と驚いた顔が神妙な顔になり、引き留めて悪かったわね、と呟いた。

 早足広場を歩き出すと、後ろから「中原くーん、また会おうね!」と高い声が聞こえた。

 その日を皮切りに、谷さん谷さんをちょくちょく街で見かけるようになった。向かうから大きな声で呼びかけられるので気づく時もあるが、僕だけ気づいて向こうはまったく気づかない時もある。

 谷さんは同年代の女性たちと集い、ひそひそと喋り笑い合っている。或る時は外から見えるレストランの窓際にいて何人かで話し込んだりしている。
駅前のバスターミナルでバスを待っていたり、時には一人で誰もいない公園でタバコを吸っていたりした。

 つまりこういうことだ。谷さんは賑やかなこの都心に住み、駅を中心とした商業施設や公的施設を転々と巡って仲間たちと交流しているのだろう。
それはきっと自然発生的なものだ。あの感じは、人に声を掛けるのなんてへっちゃらなタイプだろう。

 ある日、いつものように行きつけの書店へ行こうと道路からビルの二階へ階段を上った時だった。ドアの内側に立っていた人がいきなり僕の傍に寄って来た。
 見るとそれは谷さんだった。

「お久しぶり。今日は地味な服装ね」
 ジロジロと僕を見ると、
「今日は付き合ってもらっていい?」と僕と並んで歩き出した。
 その日僕は書店である本を探そうとしていたのだが、後回しにすることにし谷さんに付き合った。

 谷さんは僕をバスに乗せ、行きたいところがあるの、付き合ってねと言う。
 25分バスに揺られた後僕たちは停留所で降りた。
 何分か歩いていくと濃い緑の中に滝が見えた。別段感動もしなかったが、谷さんは大いに感動して一度来てみたかったのよと言う。
 僕には滝の良さは分からない。辺りを散策しながらいろいろな話をする。

 バス停で三十分待ち、帰りのバスに乗る。町に着いてからは谷さんと僕は行動を共にし、路地裏の喫茶店で珈琲を飲み、野外音楽堂のある公園を歩き回った。
 夜になってオフィス街のひっそりした洋食屋で夕食を取った。家に帰ったのは夜8時だった。
 こんなに誰かと話をしたのは久しぶりだ。振り返ると、自分のことをけっこう喋ってしまった気がする。一日歩き回り話をして一緒にいたのだが、マラソンをした後のような満足感があった。
 日頃滅多に自分の話をしない自分が話をするとこんなに気持ちが軽くなるものかと驚いた。

 その日を境に僕は時々谷さんのグループに参加するようになった。谷さんは、集まってくるマダムたちのリーダーというか代表者だった。
マダムと僕が呼ぶのは、一応敬意を表しているからだ。おばさんと呼んでもいいが、それとはちょっと違う気がする。
 自然発生的に集まった彼女たちを谷さんはまとめ、施設の手配をしたり飲食店の予約をしたりする。連絡を取り合ったりもしている。いわば旅行会社の添乗員みたいなもんだ。それをさり気なく、リーダーに見られないようにやっている。

 ある時は体育館で卓球やバレーをし、ある時はハイキングへ出かけ、ある時はランチやスイーツバイキングへ行ったりしているのだ。
そして、集まってくるマダムたちは何となく選ばれている。マナーの悪い人や、立ち振る舞いが迷惑な人、つまりルールを守らない人は入れて貰えないのだった。
 どうやって弾かれるのか謎だが、とにかくそうらしい。これはメンバーの人にそれとなく教えて貰った。


 僕は皆でどこかへ行ったりゴルフしたりする付き合いは柄じゃないが、彼女たちに混じってお茶したりランチするのは割合平気だ。黙って話を聞いてるのも苦じゃない。
 これまでの短い会社員経験が女性の多い職場だったからかもしれない。

 そんなこんなで2ヶ月が過ぎた。
 ある時オフィス街の中にある公園、一般的には三角公園というがそこを歩いていると呼び止められた。声の主を探すと、自販機近くに停めた飲料会社のワゴン車から誰かが手を振っている。

 人なつっこい笑顔で、すぐに柏木だと分かった。
 彼は幼なじみでも同級生でもない。中学の進学塾で講師のバイトをしていた時に知り合った。柏木は塾のマネージャーで、先生や生徒、カリキュラムや教材など学習の様々なことの調整をやっていた。
 ハキハキとした口調で喋り、仕切るのが上手いのと手際が良いので仲間達から信頼されていた。
 その後も様々な仕事をしているらしいが定職というほどのものはない。柏木のいい所は屈託なく明るく、話しかけてくれるところだ。だが、その中身は知らない。

「久しぶりだな、何してんの?」
 僕はワゴン車をジロジロ見て、ある有名な飲料会社で働いているのかと尋ねた。柏木は、いやいや、飲料会社はお客で自分は代行で配送と納品をしているのだと言った。
「時々町の中で中原を見かけることがあってさ、心配しているんだよ」という。
 柏木によると、7,8人の高齢の女性達に交じって一人、中年の男がソワソワしながら歩いていると言う。
「そわそわ…?俺がか?」
「そう見えたがな」

 柏木は谷さんのグループを知っていた。この町には二つのマダムたちのグループがあって、その二つはお互いを何となく敵視しているのだそうだ。
「よくそんなこと知ってるな」
「少し聞いてみたんだよ」
 敵視とは具体的にどんなことかと僕は聞いてみた。柏木はこんな風に答えた。
 バチバチに睨み合って冷たい戦争してるわけじゃなくて、一定の距離を保ちながらキャンキャンと聞こえない程度に吠え合ってる感じかな。
「あくまで牽制してるだけという…」
「なるほど」
 柏木は手にしていたエナジー缶をグッと飲み干して表情を和らげた。
「お前な、なるほどとか呑気なこと言ってないで、ばあさんたちの相手なんか止めてさ、さっさと働けよ。まだ家にいるんだろう?」
「ああ、けど…家にも事情があってな。俺がいないと大変なんだ」
「…そうか」

 追求しないのが柏木のいい所だ。
 柏木はあっそうだ、と思い出したように言った。
「なぁお前、合コンに出てみないか?来週、舟町のイタリアンレストランでやるんだよ。5対5くらいだな。お前が出るなら女子もう一人増やすよ」
「えっそんな…」
 柏木は「ばあさんたちとつるんでるよりどれだけいいか」
と呟いた。
 出てみたら分かるよ、とぼそっとつけ加え、僕の肩に手を置き力をこめた。
「うん、うん。まぁ…」
 やむを得ず、僕は行ってみることにした。

 一週間後、僕はぬけぬけと、いやいそいそと合コン会場のレストランへ出かけて行った。勿論、柏木の顔を立てるのと、物見遊山だ。

 広い室内には何の模倣か何人かで抱えられるほどの太い柱があり大きな水槽があった。その中で熱帯魚が繊細な泳ぎをしていた。水槽を塞ぐように6人の女性がテーブル席に着いていて僕たちの到着を待っていた。

 次々に男性たちが到着する。
 柏木は先に来ていて、愛想よく皆に声を掛けている。ムダのない動きだ。この場をうまく取り持っている。まるで指揮者のようだ。
 などと感心していたが、到着した男性陣を見て愕然とした。
 なんだこりゃ。
 皆体にピッタリのスーツを着ている。
 髪はよく見ると刈り上げとフワフワした長い髪の毛が組み合わさっている。
 ハゲの上にカツラを乗せたみたいだ。
 そして皆目元が涼しい。眉がスッキリしている。肌もツルンとして若々しい。
 皆K-POPの歌手みたいだ。

 一方女性は二人がお嬢様系で二人は平均的なオフィスレディといった感じ。見るからに仕事が出来そうだ。
 もう一人はジーパンとパーカーの子。何をしている人なのだろう。そして、一番端に座っているのがよく分からない、どことなく場違いな雰囲気の人だった。
 地味なワンピースに同色のカーディガン、小柄で一点をじっと見つめている。後頭部の高い位置に髪を結い細いリボンをつけている。

 僕は着るものがないので昔買った黒のタートルネックの薄いセーターと黒のジーパンで行った。一人の女性に「何をされてるんですか」と聞かれた。
 僕は用意していた「家の手伝いで不動産の管理をしています」と答えた。
ハァ…とその女性は頷き、すべてを了解した風だった。

 そう、僕はいわゆるフリーターだ。が、柏木のような積極的な仕事人ではない。
 不動産の管理など体のいいごまかしで、本当は父親が買ったワンルームマンションと小さなアパートの管理をしているだけだ。
「中原さん、家族構成は?」
 聞かれたのでしょうがなく答える。
「父親と、兄が一人です」
「お母様は…」
「僕が小さい頃に両親は離婚したんです」
「そうでしたか。すみません、立ち入ったこと聞いて」
「いえ、そんなことないです」

 父親は60代後半だが、まだ会社にしがみついている。嘱託で二度目の更新をしている。今もサラリーマンだ。
 そして家には大問題がある。三つ上の兄だ。僕が高校に上がった頃から、兄は部屋から出て来なくなった。大学に進学したのに講義にはほぼ出ていない。そしていつの間にか中退していた。
 もう何十年になるのか、考えるだけでおぞまじい。
 家の中心部に居座って、まるで家の守り神だ。そんな兄の存在を、今まで誰にも話したことがない。

 兄の生活の世話全般と家の家事その他の一切を僕はやっている。
 強制的なものではなく、流動的で自由なものだ。中原家には頑固な父親と理解不能な兄を繋ぐ人が必要なのだ。それが自分なのである。
 僕がいなければ、中原家は支柱を失ってガタガタと崩れ落ちるだろう。

 会はなんと言うこともなしに終わった。僕は単なる頭数あわせと思っていたが、後日柏木から連絡があった。
 なんと、二人が自分と付き合いたいと申し出たのだそうだ。
僕は動揺して、自分は単なるゲストだろうと突っ込んだ。
「いやいやとんでもない。お前は意外に女受けするタイプなんだよ。特に、池田典子さんと言う30代後半の人なんだが、彼女は真剣にお前と付き合いたいと話しておられる」
「へっ?」
 理解に苦しむ。家の手伝いをしているだけのフリーター同然の僕の、一体どこが気に入ったと言うのだ。
「まぁまぁ…、お前の言いたい事は分かる。あの中で一番世間から乖離してたのがお前だもんな。いや、嫌みではなく。まー、その気楽さがよかったんじゃないか?取りあえず一度会ってみなよ。向こうからデートの誘いが来てるぞ。来週日曜日午後一時、駅前のMホテル4階のレストランでお会いしましょう、だとよ。じゃ~な」
「おい、待てよ」
 少ししてまた電話が来た。
「忘れてた。もう一人お前と付き合いたいと言ってるのは辻本弥生さんと言って、お前に直接電話するそうだ。あ、店で端に座っていたポニーテールの子ね。じゃ、必ず行けよ!」妙な高笑いと共に電話は切れた。

 気が進まぬまま、僕は当日Mホテルのレストランへ出向いた。
 典子さんは先に来て待っていた。分厚い手帖に何か書き込んでいる。僕を見ると手を上げて微笑んだ。典子さんは手帖をバタンと閉じて、先日はどうも、と挨拶した。
 僕が着席すると同時に彼女は自分の自己紹介を喋りだした。

 それは履歴書のような堅苦しいものだった。一通り終わって典子さんは僕が次に語るのを待った。しかし僕には経歴も何もあってないようなものだ。          一応最終学歴と二年間勤めた百貨店の名を述べる。
 典子さんはややポカンとした顔で、あ、そうなんですねと言い、改まった態度で突然、
「あなたは人を裏切ったことがありますか」
と大真面目な顔つきで聞いてきた。

 え、と今までを振り返り「いいえ。ありません」と答えてから少し自信をなくし「多分」と付け足した。典子さんは手帖を開き、そこからメモしてあった質問を矢継ぎ早に僕にぶつけてきた。

 それらは些細なものから大胆なものまで多岐にわたっていた。例えば、小学生の頃については5問ほどあった。小学校の担任に言われた言葉で一番記憶に残っているのは何か?とか、クラスの中でどのような位置にいたか、それは自分にとって望ましいものだったか?またこういうのもあった。好きだった女の子はいたか?何をしている時が一番楽しかったか?愛読書は何か?である。

 僕は割合自分の事を考えるのが好きだし、他人を見てあれこれ分析するのも好きだ。誰かに言われた言葉をよく覚えている。その事をたまにじっくり考えたりする。要するに、暇なのだ。だから質問にはスラスラ答えられた。
 しかし中学、高校に進むと質問の難易度は上がってくる。あの頃、こういう事件がありましたよね。それについて当時どう思いましたか?と社会を揺るがした国家転覆事件について尋ねてくる。即座に答えられないのは当然だ。正直言って中高生時代の思い出なんてあまりない。家のことにかまけていた。いや、本当にそうなのだ。これは経験した者でないと分からないだろう。
 典子さんは手帖に一つ一つ僕の話を書き付けている。真剣な顔つきだ。
そして、好きな色は?日本の政治をどう思うか?支持している政党はあるのか?好きな食べ物と有名人を聞かれる。最後に「あなたは二男ですよね?」と念を押された。
 ここまでで一時間をゆうに回っていた。僕は疲れていた。お冷やが空っぽになっていて、ウェイトレスを呼んだがその時初めて何も注文していないのに気がついた。
「池田さん」
 僕は内心苛々していた。いや、誰だってそうだろう。
「なんでこんな尋問のような質問をするんですか?失礼でしょう。あなたは 誰にでもこんな風に矢継ぎ早に質問するんですか?」
と怒りを露わに言った。

 典子さんは「いえ~」と間延びした声を出し、手帖を閉じて肩の体操みたいに肩を動かした。僕が見つめると、
「いえ、誰でもというのではありません。あなただから、あなたに特別な興味を持ったから無礼と思いながら率直な質問をさせて頂きました。気を悪くされたら謝ります。ごめんなさい!」
 ぺこりと頭を下げたので、まぁ別に気は悪くしてませんよ。むしろ楽しかった、といささかおべんちゃらのような口調で言ってしまった。

 すぐさま典子さんは「良かった!」と笑顔になり、手帖の何頁かをクシャクシャにした。「あなた、いい人ね!気に入りました!」と僕の手を包むように握ってきた。
「え、どこが…?」
「そうね」
 僕が小学生の頃に一番楽しかった思い出とクラスでどの位置にいたかのエピソードが良かったと言う。
「でも一番気に入ったのは、二男と言うところ!」
「そこかよ…」
 僕はがっかりした。

 僕は典子さんの素直で可愛い性格について話したかったのではない。 むしろ逆だ。こういう言動が彼女の闇から来ていることをこの時僕は知らなかったのである。

 典子さんは次のデートの日取りを決めてきた。翌週の午後一時。今回と同じである。

 そして翌週、同じ時間にMホテルのレストランで典子さんと会った時に、僕はやっとこの間の質問の意味が分かった。
 彼女は会うなりテーブル一杯に資料を広げてみせた。それは、僕への質問の答えを元にした性格分析と二人の相性だった。
 グラフやデータによる資料はいかにもそれらしく仕上がっていた。
「つまりこれは、専門家による心理分析と性格判断…」
「そして私たちの相性ですね」
見ると、相性はとても良く、70~80%と出ている。
 これは本物なのか。偽造では?
 いや、この嬉しそうな表情はとても偽物であるとは思えない。僕は慌てて言った。
「恐れ入ります。しかし性急すぎませんか?僕たちはまだ付き合ってもいません。これからでしょう。お互いを知るには、一つ一つ会話しながらわかり合う時間が必要なんです。あなたはマッチングアプリで婚活した方が良かったんじゃないですか?」
 典子さんの表情がたちまち曇った。
「分かってます、それくらい。でも、私は急ぎたかったんです。どうしても。あなただから」
と、先週も言ったような言葉を返した。
「そんなに急ぐ理由は何なんですか?教えて下さい」
 え、ええ…と少し沈黙があり、
「私、早く落ち着きたいんです。それと、女性はやはり子供を持つには年齢の壁がありますから。急いだ方がいいでしょう」
と話す。
 しかしだ、本当に僕なのか。こんな無職のような男でいいのか。聞こうとしたが、上手く言えない。言ったら自虐になりそうだ。ええい、もどかしい。
「典子さんは、お仕事、何でしたっけ」
 言ってから思い出した。
「あ、建設部の部長秘書でしたね」
「え、ええ…」
「凄いですね、お若いのに」
「でも私、アラフォーですよ」
「僕だってもう41です」
「見えませんよね。お若い」
と典子さんは小声で言う。
「若く見える男には注意せよ、という言葉がありますよね」
とふと浮かんで言った。
「ええっ、何故ですか?」
「苦労してないから、だそうです」
「あら」
 典子さんはニヤッと笑った。

 典子さんは大手ゼネコンの建設部に勤めている。部長秘書とはどのような地位でどの位忙しいのか、想像すら出来ない。
 そもそも大手ゼネコンの仕事の内容が僕には分かっていない。興味もない。

 その日は二時間ぐらい、取り留めのない話をして別れた。が、その日から怒濤の典子さんのアプローチが始まった。
 中一日空けないくらいにかかってくる電話にメール。デートは週一、それもほぼ一日だ。
 まぁメールや電話は大した内容じゃない。せいぜい世間話か約束くらいだ。
 しかしデートは目一杯の強行軍だ。動物園、遊園地博物館、美術館、サイクリングにハイキング、テーマパークに日帰り温泉…。この二ヶ月間休日と祭日は潰れっぱなしだ。

 次第に熱を帯びてくる彼女の言動に僕は気づいていたが、素知らぬふりをしていた。
 僕たちは何なのか。つきあっているのかいないのか、お試し期間なのか。一体何を前提にこのような事をしているのか。僕はさっぱり分からない。いや、考えようともしていないのだ。ただただ相手を失望させたくないから、成り行きで、つまりその場しのぎで付き合っているに過ぎない。本当にそれ以上の動機が僕には見当たらないのだった。

 しかし36歳になる女性がどういうものか、僕にはまだ分かっていなかった。その点で僕はまだまだ甘い、青二才と罵られてもしかたなかった。
 例えば、典子さんが持参する手弁当は細やかで気配りのあるものだった。懸命に作ったという跡を残さずに大体サラリとしていた。その為今ひとつ物足りないものだったが、行く先々で甘い物を食べたり、飲みものを飲んだりするので丁度良かった。
 話にしても、確かに彼女は物知りだった。けれど知識をひけらかさず、主に僕の話を聞くのに時間を割いてくれた。今の自分の複雑な家の環境も、僕は至ってフランクに話したつもりだった。しかし反応は思いがけなかった。

 典子さんはそれまでの優しい顔ではなくなってこう言うのだった。
「確かにあなたは家族にとって重要な存在だけど、自分で思っているほど家族はあなたを必要としていない。むしろ、依存しているのはあなたの方でしょう。だからあなたはいつでも家族から離れられるのよ」と。
 そこだけピシャリと、まるで占い師のように言い切った。僕は衝撃を受けた。いや、衝撃なんてもんじゃない。いきなり雷が落ちてきたように体が硬直した。それは僕の現状を正しく言い表していると感じた。気の抜けない人だと思った。

 強行軍のデートが一段落すると僕たちはめっきりおとなしくなった。かなり疲れていたし、何となくお互いを分かったつもりになっていた。この頃から彼女の言動は明らかにおかしくなっていた。

 突然長い詩のようなものが速達で送られてきた。それは彼女の書いたものだ。叙情詩のような文。読んでみるが意味が分からない。
 電話を掛けても、話の途中でなぜか典子さんは黙り込んでしまう。また、日中仕事の合間にかけてくる時もある。重たい口調で彼女はこう言うのだった。気づくとあなたのことばかり考えている。仕事に集中できない。もっとあなたといたい。仕事なんてどうでも良くなった。何もかも捨ててあなたと一緒にいたい。でも仕事を止めることは出来ない。そう考えると涙が出る。度々泣いています、と言うのだ。

 ハァ?僕は面食らった。週に一度会っているが、彼女のそんな素振りは見たことがない。いろんな所へ行くのは最近は止めて公園や町の中の散歩だけだが、いつもハキハキテキパキしていて、こんな内面を見せたことはない。
スタスタと僕の一歩手前を歩いて、僕を誘導してくれる。それは全般に言えることだ。
 本当にこの人が、僕を思って泣いてくれているのか。何かこそばゆい。いや、悪い冗談だろう。おそらく、僕は彼女に試されているのだろう。だが、一体何のために?

「お前は女の心というものをさっぱり分かっていないなぁ」
柏木をいつもの公園に呼び出して相談すると、呆れたように柏木は言った。
「これが彼女の本心だよ」
「えっ、だってこんなの、高校生が書くみたいな手紙だろう?」
「だから、それが正真正銘の典子さんの純粋な気持ちだよ」
「フェーッ」
絶句した。少ししてやっとの思いで僕は言った。
「じゃあ、俺はどうすればいいのさ」
柏木はくゆらしていた煙草をポイと地面に捨て、フッフッフッ…と笑った。
「馬鹿だな。あれしかないだろう。男女の行き着く先はさ。何を言わせるんだ」
「へっ…」
ぼんやりした頭で僕は言った。
「何という事を…」
肩を揺すって笑い柏木は続けた。
「いい年こいた男女が、デート三昧で何もなし、か?その方がおかしいだろうが」
「まあな、そりゃそうなんだが」
正直に言うと、典子さんは僕を何度か誘った。「ホテル、行きませんか?」と、大直球だ。僕はのらりくらりとかわした。どんな返答だったのか。
「そういうのはまだ」とか「気持ちの準備が出来ていません」と、確かそういう会話だったと思う。僕の対応を見て、典子さんは一気に引いてしまったのだろう。

「一つ、お前が驚くことを教えてあげようか?」と柏木は言った。僕は思わず柏木のずる賢そうな顔を凝視する。
 柏木は声を潜めて言った。
「典子さんはな、お前が思っているどこにでもいるような社員じゃない。将来を期待されたエリート社員だ。隠してるけど、あの人、今部長職だからな。部下が何十人かいる」
 僕は腰を抜かさんばかりに驚いた。な、なんでそんな大事な事を…
「ホントかよ。いや、マジで…?‥恐ろしい」
「お前は見初められたんだよ。うらやましいな、このシンデレラボーイ!」
「からかうなよ」
 言ったものの、これまでの付き合いと彼女の言葉を思い出して言葉が出なくなった。
 今までのシーンが勝手に現れ、頭の中を乱れ飛びバグった。まるでウィルスに感染したパソコンみたいだ。

 柏木はゆっくりといつものエナジー飲料を飲み、雲を眺めている。
 ポケットからフリスクを出すと2,3粒僕にくれた。
「まぁゆっくり考えてみな。彼女はお前にパートナーになってほしいと思っている。それは疑いのない事実だ。お前は何もかも捨てて彼女の元に行け。俺が言えるのはそれだけだ」
 柏木が行こうとするのを僕は後ろから呼び止めた。
「ちょ、ちょっと一言だけ聞かせてくれるか?」
 おう、何だと柏木が振り向いた。
「俺のいい所って何だ?41にもなってまともな経歴のない、フリーター同然の俺が、典子さんに好かれる要素って何だ?」
「そりゃあな…」
 考えて柏木は答えた。
「その何もなさと、素直さじゃないの。まぁ彼女は今までも同じような事を言っていた。男に求めるものは素直さと優しさだと。色んな男と付き合ってきたが、彼女はほぼ上手く行かなかった。ずっと見守ってきた俺は知っている。お前が彼女の求める男にドンピシャだったんだろう。まぁこの事実をよく噛みしめるんだな!」

 柏木の話によると、典子さんは典型的な肉食女子だという。この間の合コンは肉食女子と草食男子の組み合わせだったそうだ。柏木が企画しメンバーを選んだ。僕は唖然とした。柏木は僕を草食と見ていたわけだ。ムカムカした。が、決して肉食じゃないのは自分で分かっている。

 冷静になってみて気がついた。
もう一人、僕をいいと言ってくれた弥生さんについてだ。何度か自分のスマホに弥生さんらしき着信が残っていた。がこちらから掛ける気になれず放置していた。あの子も肉食というのなら、その後どうなっただろう。

 僕はしばらく僕は典子さんと距離を置くべく、メールの返信と電話を三分の一に減らし、デートも理由をつけて断った。時間をかけてこの状況と自分の思いを整えようと思ったのだ。

 ある時柏木が電話してきた。驚いたのは、柏木は典子さんに呼び出されて彼女の相談に乗ったという。
「俺のことか?」
「当然だろう」
 僕は柏木と直接話すためにあの三角公園へ出かけて行った。
 自分たちの長く伸びた影を見ながら僕たちは言いにくい話をし始めた。
「おい、お前。覚悟はいいか?」
「何だよ、いきなり」
「典子さん、思った以上に病が重かった」
「病、ってどこか悪いのか?」
「アホ、恋の病だよ」
「えっ…」
 お前は都合悪くなるとすぐ黙る癖があるな、と柏木が言う。
「だって経験が少ないからな」
「それでも41か」
「年は関係ない」
「長い間家の中にいた人は無菌室にいたようなもんだからな。まぁ仕方ないか」
「…」
「ほらまたすぐ黙る」

 僕はつきたくもない溜息をついた。
 学校帰りの小学生がパラパラと公園に現れ始めた。
「典子さん、本当にお前にぞっこんなんだよな。三十分もお前のこと聞かされたぞ。あれが恋する女、ってもんなんだ。初めて間近で見たわ。お前のことよく考えて見抜いてた。で、彼女の出した結論はこうだ。彼女はお前と結婚して、お前に彼女の仕事と生活全般を支えて欲しいんだそうだ」
「へぇ」
と言いつつ、それが予想の範囲内だったので僕は胸をなで下ろした。
「でもう一つ」
 柏木は勿体ぶって言った。
「それが叶わなければ、自分はすべてを投げ打ってもいい。お前にすべてを賭ける。中原さんが一から社会人として動き始めるのを手伝う。そして自分は妻としてそれを見守りたいそうだ」
 思わぬ展開に頭がぐらぐらとした。やっとの思いで柏木に尋ねた。
「あのな、もう一度聞くが、俺のいい所って何なんだ?」
 僕は思いの丈をぶつけた。この傍らのチャラい男に。
「いやはや、俺には分からない。前にも言ったように、お前に特別な魅力があるのかもしれない。でもな、俺は別のものを感じた。彼女が今大きな仕事を抱えてて、苦しんでる。そこから逃げ出したくて現実逃避しているんじゃなかろうかと」
「現実逃避か…」
 ますます分からなくなって来た。

 僕たちは一時間以上ベンチに座ったままでいた。頭の上で雲が広がり風が冷たくなって来た。
「で、お前はどうなんだ?彼女のこと好きなのか?」
 それを聞かないでくれ、と念じていたがとうとう言われてしまった。
 やむを得ない。ここは正直に話すしかない。
「分からない。本当に分からないんだ。そもそも女の人を好きになる気持ちが‥」
 言いよどんだ後、僕は言った。
「‥あまり自分の中に見当たらない」
 柏木はぎょっとした顔で僕を見た。
「おい、それはやばいぞ。もしかすると、お前、あの‥、何だったけ。LGBDって奴なのか?」
 真剣な眼差しに僕は追いつめられたネズミのように自分を感じた。
「いや、そうじゃないと思う。ただ、格好いいなーとか憧れの対象は昔から男だった。強かったり頭が良かったり、とにかく優秀な人に憧れてた」
「へえそうだったのか」
 少し考えて僕は続けた。
「でもそれは好きとは違うな‥。好きという感情が良く分からない。女の子が可愛いのは判る。でもそれだけだ。近づきたいとか恋人になりたいのとは違う」
「一体お前に好きなものってあるのか」
「好きなものかぁ‥」
 考えつつ無理矢理探してみた。
「自由かなぁ、のんびり毎日生きること。世の中を俯瞰してみること。本を読むこと。ぼーっとしていること」
「なんだそりゃ」
 柏木は顔を手で被い、猫みたいに顔をなで回すと、やおら立ち上がって言った。
「まぁお前はお前でいいんだから、もう少し考えてみろ。紀子さんは今嵐の中にいる。きっと色んなものと戦っているんだろう。頭を冷やして二人で時間をかけて話し合えばいい。お前もな、いつまでも根無し草みたいな生き方しないで、ちゃんと地面に足付けてこれからの生活を考えてみろよ。いいチャンスだろう。望さんはお前の救世主かもしれん」
 早口で言うと行ってしまった。



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