五輪があぶり出したもの

このコロナ禍でオリンピックをやるということ自体おかしいというのは、散々ニュースでも取り沙汰されていた。
いろいろなニュース記事を読んだけれど、IOCが開催するように日本側に圧力をかけたんじゃないかという説もあるらしい。
冬季オリンピックが中国であるから、コロナがおさまった象徴を中国にするのはまずい……なんて意見もあるらしい。
真相はなんにせよ、いざオリンピックが始まってみると、選手たちが頑張ってる姿を見るのは心の健康に良いのだと実感した。
この、約1年半もの間、人々はたくさんのことを我慢してきた。
当然、お祭りごともなくなった。
なんのためにお祭りがあったのか、心底思い知らされた。
定期的にそういうのに関わることで、リフレッシュできていたんだと知る。
お祭りは、ある種ストレス発散なのだ。

しかし一方で、嫌なニュースもたくさん見た。
女性蔑視発言やらいじめ(犯罪)加害者が開会式の作曲をしていたやら、芋づる式に出るわ出るわ……。
挙句、終わってみれば(まだ途中だが)、どっかの市長が選手の金メダルを無許可で噛んだとな。
あまりにも気持ち悪い。
ニュースでたまたま映像を目にしただけなのに、あの気持ち悪い光景が脳裏から離れないのは何故だろう。
バッハの絵空事なんて、忘れ去ってしまいそうになるほど、衝撃だった。
選手村でのどんちゃん騒ぎやら、外国人選手が観光目的で外出したやら……これらは想定内だったが、まさかこのコロナ禍で、わざわざマスクを外して、他人の物を口に咥える頭の悪い人間が市長をしているなんて、予想外だった。
いろんな人がどう思っているのか知りたくて、Twitterで検索して見たりヤフーニュースのコメント欄を見たりした。
そのなかに「たしかに悪いことだけど、キモいとか言うのは違うと思う」と書いている人がいた。
しかし、このどうしようもない気持ち悪さは、どう表現すればいいのだろう?
こんなに気持ちの悪い光景を、私は久々に見たように思う。

あのいじめ問題の記事も全文読んだ。
あれに関しては、本当にやったことだとしたら犯罪だし、大袈裟に言っていたのなら馬鹿としか言いようがない。
他の同級生は、そんなに酷いいじめを見たことはなかったと言っているようだし、なにより不思議なのは被害者が加害者に手紙を送ったことだ。
被害者は滅多に人に手紙を書かなかったらしい。
しかも、その手紙には「お手紙ありがとう」と書かれていた。
つまり、加害者が最初に被害者に手紙を出していたということだ。
さらに、加害者は10年以上、被害者からの手紙を取っておいてる。
なぜ、加害者はいじめてる相手にわざわざ手紙を送ったのか?
なぜ、いつまでも被害者からの手紙を取っておいたのか?
なぜ、被害者は加害者に返事をしたのか?
障害者をからかうことはしていたのだろうが、果たしてインタビューで語るほどのいじめが本当にあったのかは、結局当事者にしかわからない。
いずれにせよ、大人になってまで、犯罪行為を嬉々として語ってしまう未熟さには引いたが。

ネット上では、阿部寛の自伝で描かれていた いじめについても、一部で議論が白熱していたようだ。
載っていた画像の文を読んでみたけれど、あれはどちらかと言うと反省だろう。
反省なら、語っても良いのではないかと思うのだが、世間の多くの人はどう思うのだろう?
まったく悪いことをしたことがない人間なんて、世の中にいるのだろうか?
そして、そのことをずっと背負って生きていることを、人に語ることは 悪いことなのだろうか?
語ることで、抑止を促すことも、できるのではないだろうか?
被害者が訴えるだけでは、加害者に届きにくいと思うから。

私は昔、知人に「私、昔いじめてたことがあるんだよね」と告白されたことがあった。
自慢するわけではなく、反省や後悔を吐き出すようだった。
私は告白されて、その人を「強い人なんだな」と思った。
なぜなら、自分の過ちを認められる人は少ないと思うから。
「自分は悪いことをした」と受け止めるには、覚悟と勇気がいる。
「そもそも最初から悪いことなんてしなければいい」という話かもしれないが、誰もがそんなに強くあれるわけではない。
見て見ぬふりもせず、悪いこともせず、常にヒーローのように良い人であれるなら、それは そうあれる人が凄いんだ。

たとえば働いていて、お金がなくて、子供が複数人いて、シングルマザーで……たとえば 子供が騒いでいたら、きっと叩きたくもなるだろう。
それは、一方的な悪なのだろうか?
私は毒親育ちだから、親を憎んでいた時期もけっこう長い。
そして、親を庇おうとも思わない。
完全に許すわけでもない。
親がしてしまったことは、環境的に仕方なかったとしても、悪いことだから。
でも、親が「自分は悪いことをした」と本気で反省して後悔しているなら、なかったことにはならないけど、責めないことはできる。
それを責めない社会が、必要なんじゃないだろうか。
ひいては、誰がどんな失敗をしても、カバーされるという仕組みが作られるのではないだろうか?
そして、自殺志願者も減ると思う。

私は、知人の告白を聞いて、勇気が出た。
アルバイト先で、同僚に注意を受けたことがあった。
内容はなんだったか忘れてしまったけれど、その時の私はムッとして嫌な態度を取ってしまった。
「私だって一生懸命やってるのに!」とムキになった。
けれど、知人の告白を思い出して「いや、あれは私が悪かったんだから、ちゃんと謝らないと」と思い直して、後日謝った。
同僚は、私が頑張って勇気を出して謝ったことを見抜いたのだろう。
ゲラゲラ笑いながら、肩を叩いて頷いてくれた。
きっと、知人に告白されなければ、私はモヤモヤしながらも 曖昧にしていたことだろう。

しかし、これには呆れるようなオチがあって、数年後 知人は私を輪から追い出そうとした。
その知人だけに限らず、そこそこ仲良くしていた人たちにも、さり気なく追い出されそうになった。
彼らは「あなたなら頭が良いから、他のとこでもやっていけるでしょ!」と笑顔で言った。
私は泣きそうになるのを必死にこらえて、彼らから離れた。
そこそこ仲良くしていた人は慌てて私を追いかけたけれど、自分勝手な言い分で追い出そうとした人を、結局許せなかった。
彼女は、謝ることなく、ひたすら言い訳をし続けた。
私はその人を無視した。
人は、やはり完璧な良い人ではあれないのだ。

こうして、反省していても同じことを繰り返す人もいる。
だから、社会がそれを容認できないのも、十二分に理解できる。
私の心は揺れ動く。
どちらも理解できるからこそ、思考がぐちゃぐちゃになって、すべてを放棄したくもなる。

こんなこと考えたくなくて、でも考えてしまうから、文字にした。
文字にすると、少し落ち着く。

さっきの、メダルを噛った市長の話。
噛じられた時 選手は笑っていて、それを、コメント欄では「大人」と言ってる人がけっこういた。
しかし、果たしてそれは大人なのだろうか?
私にはわからない。
ダメなことはダメだと、ハッキリ言うことも大人だと思う。
むしろ、誰かが言わなければいけなかったのではないか?
彼女はまだ20歳だから、言えないのもわかる。
だからこそ、誰かが彼女を守ってあげなければならなかったのではないか。
それを言えない大人を、大人と言うのだろうか。
あの場にソフトボールの監督がいたら、彼女を守ってくれただろうか。
そうであってほしい。
そういう大人が、ちゃんと存在していてほしい。

だから私は、手の届く大切な人を、守れる存在でありたい。

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