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本とかドラマとか歌の感想など
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#生きる

ロングロングアゴー 「今」の話

つい昔の話で盛り上がる。 先日若い頃の芝居仲間から連絡が来た。 自分が芝居を始めるきっかけとなったメンバーの出演する小劇場演劇というかコントイベントに行ってきたという報告だったのだが、 そこからわたしが今年再演? 再再演? された松尾スズキの『ふくすけ』(観たかった!)の話題を振ったら鴻上尚史の『朝日のような夕日をつれて』も「2024」として今やってますよねしかも主演は……! それな! 今をときめく大河俳優ですよ! いや、ほんまに! という話、からの、当時の感想メモとか引っ張

分け入つても分け入つても

町田康が書いた『入門 山頭火』を読み終わった愛酒の日に。 ヤバいやつがヤバいやつを書いためっちゃヤバい。 静かにもどぉしようもなさが頭をぐるぐると回って一気にはいけない。 何ヶ月か前に買い読むもしばらく放っておいてまた手に取ったりまた放ったりしていたら今日になった偶然。 知ってはいたが山頭火はどぉしようもない。 どれだけ美化しようともほんとうにどぉしようもないと思わされた。 そのどぉしようもなさが人を惹きつけるんやろなとも思ってきたし思わされた。 同じく町田康が書いた『告

きちんと、丁寧に しっかり

きちんと、丁寧。 大平一枝さんが聞き、書かれる人の話、いや人と話、 そして捉え方書き方にいつもじんわりじっくりと“人間”を感じさせられる。 「市井の生活者を描くルポルタージュ、失くしたくないもの・コト・価値観をテーマにしたエッセイを執筆」 改めて読んだプロフィールにもじんわりひたひたと込み上げてくるものがある。 人間は、苦しい。でも愛しい。愛しいのだ。 そう思いたいし思うのだ。思いにくいことばかりだからこそ。 きちんと、丁寧な筆に思わされる。 きちんと、丁寧な筆がおだやかに

清濁併呑とか正しさとかその中でも「ぜったい」なこととか

清濁併呑という言葉を自分で使うことがあまり好きではない。 なんだかそれは言えない言い切れないことや言い切ってはいけないかもしれないことを自分の中で言いきれたような感がするというか、そんな気になりもするから。 でも、答えを一方的に「こう!」と決めつけ押し付けられることは、も、本当に好きではない。違和感を覚える。時にこわさも思う。 ほなどうやねんどないやねん。 だからやはり「一緒に考えていきましょう」なんじゃないかと常々思っている逃げや日和見ではなく。 これもなんかずるい

ご飯を食べる その2

また振り返りになってしまうのだけれど、貼っておきたくなった。 またまたドラマ『生きるとか死ぬとか父親とか』を思い出して、 仕事のBGMがわりに観たりもしているからかもしれない。 ジェーン・スーの言うことや書くことは時に「んー?」にはなったりもする。 (でも結構読んでる) ヒグチアイの歌はいいなと思いながらも時にクドいというかあざといなぁにもなる。 (でもこの曲はすげえと思うジワッとくる) オジサン役者好きなくせに國村準はなぜかあんまりそんなに刺さらず「んー?」が多い。 (で

gem

『転がる石』という演歌がある。 旅芝居の舞踊ではテッパン曲、 つまりどこの劇団でも常に誰かが踊っているくらいの曲だ。 旅芝居特有の(股旅や任侠芝居のismから通ずる)ニヒリズムと自己陶酔、キメやアピールがしやすいええ感じのリズム、客席から掛け声をかけてもらえやすいええ感じの箇所、色々、「あー」なポイントだらけ。 せやから踊っていて気持ちよくなるんちゃうか。 観ていてもぽぉっとキャーとなれる曲なんちゃうか。 ぽぉっとはなれへん私は劇場でいつもへぇーっと観てきた。 私的初早乙女太

共に飛ぶ オスプレイとハヤブサと皆、皆と

ハヤブサ! ハヤブサや! ハヤブサやん! あほや。やっぱりこいつあほや。 ハヤブサ。 それは言わずとしれたFMWにいたレジェンドマスクマン。 空中技の不死鳥。 「お楽しみはこれからだ」 空中で事故を起こして頚椎損傷からの全身不随、リハビリ、からの、 2016年に亡くなった。 今でも語り継がれ、ファンも多い。 わたしの知人も彼に憧れてプロレスを始めた。 同じく、空中を飛ぶマスクマンだ。 彼をきっかけにハヤブサという名と存在を知った。 数日前、SNSである動画が流れてきて。

聞くこと知ることみること 常一とか劇場とか

人の頭の中と心の中が見えたらいいのになあ、 よくもわるくもいいのになあ、と思っていたことが昔あった。 可視化されたら、「わかりやすい」、やん、って。 わかりやすいから、 人付き合いの距離感とかも図りやすいし、ええんちゃうん、って。 愚かである。ええ訳ない。ええこと、ぜったい、ぜんぜん、あらへん。 と、いうことは、SNSをみていても、顕著じゃない? 悪いこと、悪い面だけじゃない、いいこと、いい面もたくさんある、し、 さまざまな面と意味で わたしたちの日常にはもう切っても切り離せ

芝居小屋とうそとほんと 『万両役者の扇』

また偶然なのですが、 芝居小屋にまつわる本を読みました。 出版されたばかりの新作なのですが、ほんと、偶然。 んー? となって、手にとりました。 芝居をすることにとりつかれ「ほんととうそ」が曖昧になっていく人と、 その人に魅了されて(?)いく人びとの話。 簡単な言葉を使うとそれは常軌を逸した…… いや狂ってるんじゃなく冷静、 意外と冷静で、 いやいや、もう「ほんととうそ」「ほんとかうそか」 「自分ってなんなのか」が、 わからなくなっている、みたいなのかもしれない。 自分の“

花と花瓶 ある2人の歌手の顔

「人生はその日その日の積み重ね」 近所のお年寄りが口にしたのを聞いて肚の中でツッコんで笑った。 「何? みつを的な?」 でもその夜寝る前になって「うーむ」「ほんまやなあ」なんて。 ということを、思い出したのは、テレビに出ていた2人のおじさん歌手を見てのことかもしれない。 森進一。 「こわ!」 なんなんや、あの顔。今の顔。 人の容姿をどうこういうことはいいことではない。とはわかっている上で。 わたしはこのひとの歌とこのひとにずっと興味がある。 五木ひろしより森進一派。歌に物

雨の中 『羅城門に啼く』と『侠』

豪雨の中、野暮用で1時間歩かないといけなかった昨日昼前。 川沿いの国道沿いを歩いていたら 車やトラックがびゃーっと走ってその度にザバーッ。 無になった。 泣けてくるし怒りが湧いてくるし でも歩かざるを得ない辿り着けないことには。 ずんずん歩きながらザバーッをまた、またまた、浴びながらも、思った。 たぶん車に乗っている人は攻撃とか加害しようとは思ってもいない。 悪気はない。 あちらもただ仕事や目的のために走らせているだけでしかない。 雨の中の運転だ。あちらも危険だろう。 でも速

種と翼 わかりやすさや考えることや色々をテレビドラマに思う

まとまらないままに書きたくなった。 さいきんのテレビドラマを観ていてだ。 きっかけは朝ドラからだったような気もする。 観ていますか。 SNSでは大絶賛の嵐だ。 うんうん。よくわかる。 でもわたしは初回から観始めて数話進んでいくうちに 「うん」と共に「んー?」を感じるようにもなった。 いい意味で「わかりやすい」んじゃないか、と。 「みせたい側を引き立てるために わかりやすいわかりやすすぎる役割というか設定をされている」 っていうといいかなあ。 それがきっと「良い」のだろ

2054 ドラマ『不適切にもほどがある!』にありがとうを言いたい

ドラマ『不適切にもほどがある!』については何度か書いた。 回を重ねるごとに、違和感と「これはあかん」が重なりもし、 入り込めなく集中できなく(集中して楽しめなく)なった。 最終回を「どう終わらせるのかな」っていう期待はあったのだけれど、 「んー………?」「うんうん」「なるほどな」「でもなあ」 だからもう一度観なおしたらほろりとはなりもしたけれど、 いろんな人の気持ちを考えて「どうなんやろうなあ」となったのもほんとの気持ち。 悪い意味でもいい意味でもいい意味でも悪い意味でも 「

芝居小屋と人 『木挽町のあだ討ち』

自分で自分の書いたものを改めて引用するなんて全然よくない。 でもふとそうしたくなったのは、 読み終えたとある1冊が、ほんとうによかったからだ。 読みながら何度もぐっときて、じぃんとして、 読み終えて、そうしたくなったからだ。 直木賞受賞作だし、人気作だし、 尊敬する劇作家たちも薦めていたから気になってはいた。 にもかかわらず、手に取るのが遅くなったのはすごくしょうもない理由だ。 「もう時代小説はええかなあ」 うんと若い頃一時期、ずっと時代小説を読んでいた。 心はずっと江戸