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共生社会とは〜相模原事件が壊したもの〜

もしも(おまえには『生きる意味』がないと言われて)
私が『生きる意味』について立証責任があるように錯覚し
うまく論証できなかったとしたら
私には『生きる意味』がないという事になるのでしょうか
そんな理不尽な論証を求められたとしたら
私はそれを暴力と認識します
〜本文より〜

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著書:まとまらない言葉を生きる
著者:荒井裕樹
発行:柏書房(株)
発行日:2021年5月25日

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【2016年7月26日 相模原事件】
重度知的障害者施設での殺傷事件から7年が過ぎた

『障害者に生きる意味はない』
当時SNS上では実行犯の主張に共鳴が溢れたが
生きている意味を否定してきた政治の責任は重いだろう
恐らく生まれつきの精神障害を持つ自分としては
尚更思い入れは強くなる

偏差値で進学校や進学クラスが割り振られ
健常者と言われる人達の通学する学校に
果たしてどれだけの障害者が在籍していただろうか
無限の可能性を秘める筈の個性を千篇一律に数値化し
『水準』に達しない者は排除し隔絶する教育方針を
政府は推し進めてきたのではなかったか
いつまで、その恐ろしい優生思想を続けるつもりなのだろう

そう考えれば、この事件は起こるべくして起こった
必然の帰結と言える
事件を教訓とするなら文部省教育の在り方こそ
見直されなければならない
いわば加害者は歪んだ社会の代弁者であり
加害者ひとりのパーソナリティの問題として
片付けるべきものではない

健常者も障害者も共に受けられる教育を模索すべきだ
『そんな事をしたらイジメが起きる』のではない
隔絶しているからこそ、
自分とは違う他者に対する接し方も分からずに
こんな凄惨な事件が起きたのだ

共生する為にイジメの起きない情操教育をする事こそが
社会にとっても個々の人格形成にとっても大切な 
今まで置き去りにされてきた真の教育である筈だ

SNSで拡散される目を覆いたくなる程の動物虐待と
同じ事が人間社会においても起きている
何故なら動物虐待と対人暴力は連動しているからだ
という事は、欧米社会においては今や定説である

かつて日本にも『人間動物園』なるものが
設置されていた時代があった
近代化されていない地域の人々や障害者の人々を集め
進化論に基づき観察しようという『科学的』『学術的』展示だ
人権概念が普及した現在では『人間動物園』は廃止されたが
障害者に対する社会の差別偏見は何も変わっていない

『障害の有無で人を隔てる事なく共に生きられる社会』とは
未来の目標ではなく、この社会はもう既に
多様な人々が暮らしているのだという事
いわば、喫緊の課題だ

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自民党改憲草案

【第24条】
家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。
家族は、互いに助け合わなければならない。
(この項を追加)

この草案の何が問題なのか
社会的弱者の支援や福祉に関しても
社会全体で扶助しなければならない筈の事が、
家族の負担にされてしまっているのが現状だ
そして改憲草案は、
「家族の責任」とする事を明文化しようとしている
以下、本間正吾氏の言葉を借りる

ひとがそこに所属していると意識し、
そこで安心して生きていけると確信することができる場所、
それが社会であるはずである。
そうした社会を形成する上での道徳的基礎は
相互扶助の意識である。
その意識は特定の集団の中に限定されるものではなく
普遍性をもつものでなければならない。
そうでなければ包括性をそなえた社会を
形成することなどできない。
「家族」を持ち出すとき、
相互扶助は「家族」の中に限定され、
普遍性は失われる。
差別なく互いを支えようとする道徳はありようもない。
先ずは「身内」であり、
「他人」は後回し、
「他人」まで助ける必要もない。
残るものは「家族」のエゴだけである。
そんな「家族」を「基礎的な単位」とする社会は、
ひとを受け入れ生かす社会ではない。
それは見せかけの社会、
統治権力が支配し管理するだけの荒野にすぎない。
「家族」の尊重、道徳の復興を
声高に叫ぶ人々が目指す先に待つ世界は
こんなものである。

終わりに言おう。
社会の自然かつ基礎的な単位は個人である。
自立した個人が互いに支え合い、
それぞれの人生の完成を目指すことが可能になるとき、
公共の福祉は実現される。
これが現行憲法のめざす世界である。
それは相互扶助を基本とする道徳的世界になるはずである。
そうした社会の実現を望むならば、
改憲案のような条文を憲法に書き込ませることが
あってはならない。

2023.05.11