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いかりの正体は、かなしみなんだって / おーなり由子『きれいな色とことば』


この言葉に、何度救われたか分からない。

「いかりの正体は、かなしみなんだって」

「あんなやつ、大きらい。どうなったっていい」
どうすることもできなくて、相手のことにも、自分のことにも腹を立てる。心が止まらなくなっている。さんざん怒ったあげく、ゆるんでおちてきた言葉。
 ほんとうは、かなしいのや。
 子供の頃、知らない大人に自分のことを決めつけられて何か言われると、腹が立って仕方なかった。
「知りもしないのに!」
と、その人のことが大嫌いになった。
あれは、かなしかったんだ。

おーなり由子『きれいな色とことば』(2002、新潮社、p.23)


私は、いろんな場面にこの言葉を当てはめて活用している。仕事でのクレーマー対応にも役に立ったし、自分の中に生まれた怒りを振り返るときにも役に立っている。

数年前、大嫌いになった人がいる。

本当に嫌いだった。
今はもう会うこともないので別に嫌いではない。
本当にどうでもいいからだ。

自分で言うのもなんだが、わりと温厚な性格なので、人を本気で嫌いになることは少ない。学生時代は、苦手なタイプとは距離を置くようにしていたので、それで済んでいた。

でも、社会に出たらその対処法は通用しなかった。

たとえ気の合わない嫌いな人とも毎日顔を合わせ、協力して仕事をしなければならないからだ。距離を置いてたら仕事が進まない。嫌でも絡まれたり、自分から絡みにいかなければならない。

その人は、私をイジメたわけでも、悪口を言ったわけでもない。パワハラでもないし、性格がすごく悪いとか、何か私とトラブルがあったというわけでもない。ミスもなく優秀な人で周りの人とは仲良く楽しそうに仕事をしていた。

私も、ミスはちょくちょくあったけれど、即クビになるほど仕事ができないわけでもなく、周りの人とも普通に人間関係を構築できていたと思う。飲みに行ったり休日に遊びに行ったり、仲良くしてくれる良い人たちばかりだった。

でも、その人とだけは最後まで仲良くなれなかった。

その人が、私の挨拶をいつも無視する、私にだけいつも態度と言葉が冷たい人だったからだ。

理由はいまだによく分からない。私が何か気に障ることを言ってしまったのかもしれないし、私のトロいところが見ててイライラしたのかもしれない。ただ「馬が合わない」というだけだったのかもしれない。

周りに誰かがいるときは優しくて、二人きりのときだけ冷たかったわけでもない。堂々と、誰の前でも、私にだけは冷たかった。全く陰湿さがなかったのが、不幸中の幸いだった。

周りは私に多少の同情はしてくれたものの、何か大きなトラブルが起きているわけでもないので、具体的になにか行動してくれることはなかった。

それでも、同じように私まで挨拶しないのは人としてなんか嫌なので、挨拶は必ずするようにした。たまに小声で何か言い返してくれる時もあったが、基本的には目も合わしてくれず、いつも冷たく感じた。

仕事のことで話しかけても態度が冷たいので、だんだん話しかけるのが億劫になり、仕事がしづらいと感じるようになった。

数ヶ月くらい、「なぜ嫌われているんだろう?」とうじうじ考え、「きっと私が仕事ができないから悪いんだ」と自分を責めたりしていた。

人生でここまであからさまに誰かに嫌われるのは初めてだったので、私はかなり傷ついていた。たった1人でも、誰かに嫌われるのはやっぱりすごく怖くて、悲しかった。私は、ほんとうは、みんなと同じように仲良くなりたかった。一緒に働く仲間を嫌いになんて、なりたくなかった。


でもある日、「なんかもういいや。もう考えるのも面倒くせー!!!」と思った。そしてだんだん、ムカついてきた。

どうして私が悩まないといけないんだろう?挨拶しないほうが完全に悪いのに。挨拶すらせずあからさまに態度に出すなんて、幼稚なだけだ。

そもそも、チームメンバーに冷たくして話しかけづらい空気を出すこと自体、仕事ができる人ならしないんじゃないか?いくらミスなく仕事ができても、周りに余計な気を遣わせて業務に支障が出ているなら、それはもう「仕事ができる」とは言えないんじゃないか?

いちいち反応することすらもくだらなく思えてきて、いつのまにか「はいはい」と受け流せるようになった。こんな幼稚な人、まじめに相手にするほうがくだらない。

苦しみの日々が終わり、やっと、心から本気でそう思えた日は、本当に嬉しかった。相変わらずその人は私に冷たいのに、もはやちょっと楽しくなっていた。「どんどん来い、絶対に動じずにスルーしてやるから」とまで思えるようになった。

勝った、と思った。相手にも自分にも。

周りの人の機嫌や態度に振り回されてうじうじ悩むことほど無意味なことはないと思う。人の本音なんて、相手から表現してくれない限り、どれだけ努力したって分かりっこない。

相手が私を嫌おうが憎もうが勝手にすればいい。それは相手の自由だ。私のコントロールできる範囲じゃない。私はもう「自分が機嫌よくいることだけにフォーカスしよう」と決めた。

※この考え方は私が自発的に到達したのではなく、岸見一郎・古賀史健の『嫌われる勇気』の「課題の分離」の思考枠組みを取り入れた。

もちろん今も、嫌われるのは怖いし、人の言葉にはいちいち傷つく。傷が怒りに変わるときもある。感情のコントロールはやっぱり難しい。嫌われることに慣れたわけじゃない。

でも、その出来事の捉え方や、自分の態度や行動は選ぶことができる。感情はなかなか難しくとも、思考と行動は自分の意思で選べる。他人の態度や言葉に傷ついたまま終わりだなんて、負けた感じがして悔しいじゃないか。



「どんな経験も無駄にはならない」とよく言うけれど、あまりに抽象的すぎる格言なので、自分の経験に置き換え、その思考に至るまでを具体的に書いてみた。

今後また誰かに対して怒りが湧いたときは、ここを見返そうと思う。

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