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年初めの蹉跌

あけましておめでとうございます。今年もご愛顧のほど、どうぞよろしくおねがいいたします。

さて、新年早々ヘマをしでかしました。お年玉や初売りに浮かれた上機嫌で思わぬことを口走ってしまいました。これが問題のツイートです。

③で恋をし、恋文を送り、振られると口走ってしまいました!別の機会に言えば言えば良いものをよりによって新年の抱負でいうなんて…。
たかがツイッターです。投稿ミスだと言って削除してしまいましょう。たかが目標じゃないですか。そうやって簡単に割り切れればいいんですけれど、幸か不幸か僕は言葉と真剣に向き合おうと決意して以来、よほどの誤字脱字乱筆でない限り、記録として残しておこうと決めているんです。だって後ろを振り返った時、あるべき場所に一歩足りない足跡ってなんだか不安じゃないですか。

今まで恋愛をしたことがないというのは以前の投稿でも述べたとおりです。それは僕の魅力不足、自閉的な気質と怠惰に由来するものだと考えますが、書いてしまったのもはしょうがないです。腹をくくってしっかり向き合うしかないありません。実現するかは別として、まずはその下準備でもしておいたほうが、後々の言い訳にまで繋がりうるという打算などは決して、決して有しておりませんので、あしからず。

目標に掲げられているプロセスは3つです。まずは好きな人を見つけること。これが恋愛を始めるうえで最も難関であることは周知の事実ですが、僕の周りには僕より優れた教養知性容姿を持った魅力的な方々がごまんといらっしゃるので、あとは僕が恋心を抱くだけなの気もしますが、それが簡単にできたら苦労はしないんですな。問題はどうやって恋心を抱くかということです。

続いて恋文を出す。実際恋愛にかこつけて、ただこれをやりたかっただけなのかもしれません。今時恋文って素敵じゃないですか。手書きの言葉は言葉自体が持つ意味以上のものを持ってしまいます。例えば、先日紅白歌合戦で話題を呼んだ松任谷由実さんの曲に「あの日に帰りたい」という名曲があります。その歌詞の最後はこう締められています。

今愛を捨ててしまえば
傷つける人もないけど
少しだけにじんだアドレス
扉にはさんで帰るわあの日に

最後の「少しだけにじんだアドレス」という表現だけで、それが涙を流しながら書いた最後の連絡先だということがわかってしまいます。このハイコンテクストなやりとりを僕はしたいんです。
高校時代、古典で習ったある物語の中で、矢文を想い人の敷地に飛ばすという場面がありました。他にも季節の草花を添えたり、香を焚きつけた、それはそれは甘美な戯れだとうっとりした記憶があります。いつかやりたいと思ってる先延ばししているうちに、心身ともに老いさらばえてしまい、報道番組で「恋文を送りたかったなどと意味不明の供述をしており…云々」となって耳目を集める事態となってしまうことだけは避けたいです。
若さゆえにできる向こう見ずな行動の一環として、僕は絶対に誰かに恋文を送りたい。あっ、もちろん矢文ではないです。朝起きてベランダに怪文書のついた矢柄が落ちていたら怖いですもの。

最後に振られる。これは恋の必然です。振るんじゃなくて振られたいんです。別れ際までキザな言葉を使いたいです。別れを告げられた足で、そのままバーなんかに入り、マスターに愚痴を投げつけて浴びるほど飲み明かしたいです。そして千鳥足で店を出たら、途に倒れて恋人の名前を呼び続けたいんです。惨めですね。素敵ですね。えっ古いって?

さて、ここまで見てきましたが、やっぱり言葉というものがどうしてもついて回ります。そこで、邪道ではありますが、ここに恋文練習帳とでも称した連載ものを気が向いたとき綴っていこうかなと考えている所存です。言葉で事前にセリフを用意しておけば、いざという時に使えるんじゃないかと安易な下準備も勿論ですが、恋愛ものを書く際のいい練習になるんじゃないかって思うんです。そもそも、僕は肉感的に人を好きになれません。性欲を恋愛感情と混同してる気がします。好きになった人の言葉が心を燃え上がらせるのではなく、むしろ色めき立つ毒を含んだ言葉が、全身を巡り巡って、中枢神経を侵された結果として好きという気持ちを生じるのではないかとの仮定を立てています。したがって、恋愛の準備として言葉を洗練させておくことは、十分実用的な準備と言えるのではないでしょうか。直感で人を好きになれたらどんなに幸せだろうかと思います。いつか恋を重ねて目と目で通じ会える日がきたらいいですね。

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