今日まで生きてしまった。
二十歳になった朝、まず口をついで出たのはこの言葉だった。
昨日はこの呟きから数回目の成人式である。僕の誕生日は幸か不幸か、成人の日にとても近い。
それもあって、二十歳になった日、成人するという事実が、様々な観念を纏った不定形の、途方もない重力を持った現実で迫ってきたのを今でもハッキリ覚えている。
僕は夭逝するはずだった。
いや天の御意志に絡め取られないにしても、せめて自分の意志で自殺しようと思っていた。だから、二十歳の誕生日を迎えた朝、こう呟いたのだ。
青年の苦悩は隠されるとき最も美しいと言った小説家がいるが、僕も人並みの苦悩は抱え込んでおり、おそらく今よりは美しかった。
若さと美しさを豊穣に湛えた生の絶頂で死ぬことほど、贅を尽くした意志決定もないだろうと考えていた気がする。
いずれにせよ、彼に同じく、夭逝を心のどこかで待ち望んでいた。
そして彼と同じくみすみす死の好機を逃してしまった感に堪えないのである。
こんな理想が昔からあった。
蛍光灯の無機質な明かりが薄暗い病床にて、生きんとする意志を細腕に宿しながら、母が、兄弟が、友人が、その手を握っている。
食事は随分前から粥のみで、今朝は久しぶりに食べた漬物が美味かったなどと回想しているうちに、突然、春の桜がもうじき来るなどと悲しみを滲ませた誰かの声がする。
襖には、雪か花びらか区別を許さない影がはらはらと流れ…こんな妄想である。今考えると悪趣味もいいところである。
ラディゲのような悲劇の夭逝には、夭逝足り得る条件が必要で、若さはもちろんのこと、夭逝ゆえに惜しまれる美貌なり才能なり、要は、僕が持ち合わせない全ての要素が夭逝の第二条件にして絶対条件なるわけだ。
夭逝に必要な若さと人並みの苦悩しか持っていなかった人間が夭逝を望むのは、今から思うに、誰にでもある青年期の感傷の類型だったのだろう。
話を戻そう。
僕は成人式に出席していない。
市役所から案内が届いた時、むざむざと母の手からそれを毟り取り、唾棄するようにゴミ箱へ捨てた気がする。
当時は、精神的にも社会的にも、とても面を上げて白昼堂々歩ける姿ではなかった。夜を友とし、本を隠れ蓑とする、随分と頽落した青瓢箪だった。
そんな僕に帰るべき故郷があるはずもなかった。会うべき仲間もいなかった。それだけの理由もなかった。
だから、率直に拒否した。母は「あっ、そう」とだけ言い残し部屋から出て行った。
成人式へ出席せずに分かったのは、お酒を公然と飲めるようになろうが、証券口座を作れるようになろうが、数年経ってもなお、一向に成人という踏みしめるべき大地を持たず、幼稚な感情にぶら下がった宙空の心地悪さである。
成人式を、あるいは成人に望まれる行動を経験してきた人と、そうでない僕には決して埋めがたい溝が横たわっているのだ。
そして、今日、鏡の前にいるのは、未だ成人を留保してきた幼稚な面影を若干に残しながら、若者らしい朝の晴朗な目覚めから日に日に遠ざかってゆく、防腐剤を施された些か不気味なおじさんである。
そこで、本稿では、ひたすら書き綴ることで、僕なりに未成年との決別を試みようと思う。
と、書いているうちにふと思い出した。以前、僕は自身が成人したと感じた瞬間、一人成人式を催そうと試みていた。その場所は、隣町にある江戸時代からつづく老舗の料亭である。
いそいそと得意顔で出向き、懐石料理をついばみながら、僕ねえ今さっき成人したばかりなんですよ、年齢?実はね、とっくに二十歳は超えてもうアラサーですよ、ええ、だってわからんじゃないですか、成人する日なんて、みんな一様に成人できるわけないんですな、だからこうして、今まで食べたこともない豪奢な料理を、自分の財布の紐を緩めて、たらふく食べさせてるわけですよ、などとほろ酔い気味で、これがいかに当世風でないかを、いかに好奇の目に晒されるかを事前に計算した試みである。
歴史に名を残す偉人のエピソードの中にひとつはあっても良さそうな響きの話じゃないか。
虚栄心ここに極まれり。
しかしながら、今思い出したように、自分で自分の成人を見極めるのは大変難しい所業である。
これでいいかな、と思うとまだ自分の幼稚さに目がつく。
自分よりも年下の闊達な姿に、何度情けないと感じたかわからない。
もちろん、成人を認めたくない気持ちも存分にあった。
その頃抱いていた大人像といえば、日々の過労を下世話な週刊誌と嗜好品によって解消する不潔で、世間体の保持にばかり身を窶す、尊敬とはかけ離れた存在であった。
まあ、見識の狭いこと。
畢竟すると、不確かな批評眼を以って、自分自身に成人の資格を与えようなどとは毛頭無理な話である。
それには、他人との比較を一切やめて、自分の数ある幼稚さを前に眼をつぶる、よほど果断な、そして鈍感な態度を要するらしい。
僕には無理だった。
成人は、自身を後から認めるといった自己了解の類ではない。
期待と同じくらいの怯懦な心をスーツの下にひた隠し、式に出席することで、無理矢理に成人にさせられるのである。
言わずもがな、みんな不安なのだ。
でも、みんな不安じゃない顔をする。
その心情は、中島みゆきが「成人世代」という歌で見事に歌い上げている。
この曲にもう少し早くから親しんでいたら、今日は多少変わっていたかもしれない。
悲しい気持ちを 抱きしめて 悲しみ知らないふりをする
笑っているのは 泣き顔を思い出さずに歩くため
寂しい気持を 抱きしめて寂しさ知らないふりをする
踊っているのは憐れみを鎖と共に捨てるため
成人するのに、自由意志は存在しない。成人「する」のでは決してない。
もちろん、式に参加しない自由は存在するし、僕のように後から一人成人式を催す自由も存在はする。
だが、それは僕の上述した過去の失敗にもある通り、自由の表明の一方で、成人の自覚を先送りしているだけなのかもしれない。
好むと好まざるとに関わらず、人は成人させられる。
もし、成人に自由意志が存在するとするなら、それは成人する前に主体的に死んでしまうことだけだろう。
ただ、僕のように後から心地悪さを感じて、心的成人の儀を後から執り行うことも十分可能である。
自覚さえすれば、いつでも可能である。成人の日はなにも成人した当事者のためだけにあるのではない。
その当事者であった人はもちろんのこと、当事者に何らかの理由で入れなかった人が、過去への追憶をめぐらし、その過去の一点から今日までの人生を思い巡らす契機なのである。
だからこそ、世の中には成人式の当事者よりも、非当事者がしゃしゃり出て、いや、わざわざご丁寧に祝辞や助言を述べたがるのだ。
彼らに見えているのは、新成人の晴れ着姿をスクリーンに投影された、二十歳の自分ではないか。
だから、成人に少し遅れてしまった人たち、僕と一緒にささやかな成人式をしませんか。
連絡お待ちしています。
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