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飲酒論

 ​​お酒を飲むという行為を自分の中で定義する必要があると感じ始めたのは、ここ1、2ヶ月のことだ。学業や私生活の忙しさ、口に出せない鬱憤が溜まっており酒に逃げたという、よくある頽落した大学生ストーリーではない。
酒を酌み交わす友人ができ、お酒を飲む行為が自分にとって何をもたらすのか、改めて定義することで合理的な理由に基づく積極的飲酒が捗るという意図でも決してなく、ただの行為が思想の実践という高尚なものに昇華し、日常行為をまた一つ明晰に叙述するのに役立つのではないかと思ったからだ。

 その友人を仮にMとしておこう。Mと私は学年こそ違え、やたら馬の合う友人でたまに呑み歩いている。彼はビールが好きらしく、銘柄を見ては楽しそうに注文をするので、私も釣られて頼んでみると、これが目の醒めるほど美味であった。
酔っ払っていたので肝心の銘柄は忘れてしまったが。ガハハ。

 まず、グラスに注がれた黄色の液体が泡を燦々に湛え、恭しくテーブルに運ばれてくる。ビールの単位はパイントというらしい。生き生きとした泡に鼻を近づける。
相変わらずビールの匂いだが、グラスゴーあたりにありそうなパブを模した店の雰囲気と相俟って、なんだかこれまで飲んできたおじさんのビールとは一線を画しているようだ。サッカーの中継は蔓延防止措置が出ている状況を忘れるような怒気を帯びている。
かつての私は、無下にもあの大地が育んだ大麦とホップの豊かな香りを、酩酊した親戚の叔父さんの呼気の匂いくらいにしか捉えていなかった。因果関係が逆である。
一口呑む。何か違う。二口目。苦味が口に含んだ際のビールの香りと調和し南国の果物のようだ。もう一口。今度は後味が長く尾を引いて、次の一口を待っているかのようだ。ちょうど良いところにフィッシュアンドチップス。衣のサクサク感と熱を帯び柔らかい白身魚の肉厚を冷たいビールで飲み干す。もう止まらない。
Mは何か言っている。何を言っているのかもう忘れてしまったが、ありきたりな話題であったことはなんとなく覚えている。将来について、就活について、大学生が面と向かって話し合うまともな内容などアルコホールのせいで一寸だに出来ないくせに、会話の熱量だけが記憶の中に煌々としているのがわかる。わたしが会話に求めていたのは、建設的な議論以上に、この熱い後味なのだ。
このようにして、私はビールを、もといお酒の味を知ったのだ。

 こんなふうに書くと、以前は酒を呑む友人すらいないかのような誤解を受けるかもしれないが、そうではない。ただ、かつての酒は友情の紐帯を確認する位置付けでしかなかった。逆に言えば、酒を味わいながら、談笑を楽しむという両輪の楽しみ方を知らなかった気がしてならない。
2年前の晩夏、別の友人とコンビニで安酒を買い、深夜の街を朝焼けまで練り歩いた記憶があるが、その時はまだ酒を飲む楽しさを認識してはいなかったと思う。相手が酒を飲むから、じゃあ私も飲む。特別な夜だから日頃の行動から外れた轍を歩いてみよう。酒は非日常だった。酒を飲むとなんだか身体が温まり、それで普段思ってもみない方向に話題の舵が傾く。それが楽しかった。
 
 今の私を知っている人間からすれば、私がかつてお酒や酒により酩酊した大人を厭悪していたなどと聞くと信じられないという顔をするだろう。飲んだくれに虚言癖まで身についちまったのかい、と謗りを受けそうだ。
しかしこれは紛れもない事実で、大学に入学した当初は飲み会のお誘いもたくさん受けたが、カマトトよろしく「節度ある」飲酒を心掛け、自身に課した禁欲に対する裏切りへの失望と、その背徳感を周りの喧騒に気づかれぬよう、ちびちびとグラスを煽ったものだ。本当に不味い酒だった。

 私はお酒を憎んでいた。私とお酒の出会いはおそらく5歳あたりまで遡る。お盆になると親戚が集い、寿司を突きながら盃をかわす。両親や見知った親戚は普段は見慣れない大人達とともに、コップをぶつけ合い何やらはち切れんばかりの音量で談笑する。その様子は、見知った顔とはだいぶ違っており、両親の中に人間としての多様性を発見するとともに、そのコップをぶつけ合う行為の先に、なぜ普段は自分の世界を厳格に牛耳っている律儀な大人が、まるで自分よりも幼気な赤ら顔で騒げるのか不思議でならなかった。そのコップを互いにぶつけ合う行為に私は嫉妬していた。私のコップと彼らのコップにある透明な液体はそれ自体同じように見えるのに、同じようにコップをぶつけても、おそらく彼らのようになれない疎外を子供心ながら直感していた。

 小学生になると、地元の夏祭りに出るようになった。ある夕暮れ、大人が神輿の横のビール箱に腰掛け、酒を飲んでいた。町内会長とその知り合いだったと思う。私は友人と木陰に隠れ、その様子を伺っていた。ビール缶を開け、少し談笑しているとこれ以上飲んだら祭りの運営に支障が出ると思ったのか、地面にそのビールをわざと零したのだ。私は意味が分からず、怖くなってその場を去った。おそらくあの量のビール缶は町内会費で購入したものだろう。それを祭りの前に盗人よろしく呑み、飲めない分を捨てる行為は、小学生の青い正義感では理解できなかった。理不尽が酩酊によって成功する恐ろしさを感じた。

 以来、私は理不尽な行為が飲酒の有無によって正当化される論理を振りかざす大人を悉く唾棄してきた。件の町内会長がそうであったように、酒を飲んで連想的に理不尽な説教をする母親がそうであったように、私はお酒を飲む人間像を、身の回りのいわゆる「どうしようもない大人」から徐々に捨象し、そこに道徳的堕落や非理性的動物としての属性を付与して蔑んだ。いつしかそれは自身の飲酒に対する嫌悪感へとつながった。その凝り固まった偏見を解凍してくれたのは、Mをはじめとする私の周りの愉快な飲酒仲間だと思っている。ここでぜひお礼を言わせてほしい。乾杯。
 
 さて、ここまで私とお酒の遍歴について綴ってきたが、じゃあ、結局お前にとって飲酒を定義づけるってどういうことなんだいっていう、最初の問題に戻ろう。断っておくと私はお酒に頗る弱い。ビールを2パイント飲んだだけで顔が茹蛸のように赤くなり、なんでも饒舌になり大声で笑い出すらしい。怖い。
そんな体質が幸いしてか、裸踊りや失禁嘔吐など人様に迷惑をかける行為には今のところ至っていないし、程々しか飲まずはっきりした意識があるため、飲み会では“定番”とされている下品な話題も発したことがない(はず)。
話が少しズレるが、私は中島みゆきの曲を小学生の時から愛聴しているが、彼女の作品にはやたらと酒が出てくる。
 
「夜露まじりの 酒に浮かれて 嘘がつけたら すてきだわ」
「胸まで酔ってるふりをしてみても 忘れたつもりの あの歌が口をつく」
「テキーラを飲み干して 短かった幻の日々に こちらから say goodbye」
「昨日の酒を 今日の酒で 流してみても
砂漠の雨のように おまえに乾いてる」などなど…
 
 忘れたい過去や人間のために酒を呑み、それでも酔いきれず忘れられない切なさが歌詞から透けて見える。彼女の詞に出てくる主人公のように、やけ酒にずっと憧れていた。デカダンスな飲んだくれになりたかった。酔っ払ってタクシーに乗って途に捨てられたら誰かの名前を呼び続けたかった、そういう負の感情のカタルシスとしての飲酒の機会をずっと伺ってきたが、前述した正の感情と同様それもまた実現には至ってない。

 こんな社会の鋳型にすっぽりハマった脳みそを吹っ飛ばし、昨日の記憶が頭痛でかき消されるくらい飲んでみたいけれど、どうしても理性が邪魔してできない。例のMくんは、まだまだ酒が足りないという。本当にそうだろうか?

 酒を飲んでいる時の自分の状態を、シラフで記述するというのは実証性にかけるが、ほんのり酩酊した時のメモを見返しながらアルコール漬けの前頭葉を再構築すると次のようになるらしい。
 
「理性と非理性の壁は幾分か薄くなり、非理性の側に普段から抑圧し見過ごしてきた魂の叫びのようなものを聴くことがある。そこに人間の原初の姿をした炎のようなゆらめきが漏れ灯となって見えることがある」
 
 この理性と非理性の境界を突破するためには、Mのいうようにお酒の量が足りないだろうけれど、もっと根本的な問題として、その境界を突破する以前まで踏み込んで考えなければならない気がする。壁のその先にある抑圧された様々なもの、原初としての人間の姿なるものを私はすでに知っているはずだ。仮に理性が極限にまで鈍り、非理性が勝った先に見えるものをどうやってまともに知覚できるのだろうか。抑圧されたものを閑却し、お酒によってそれが「知覚できる」と思い込んでいる時点で、私は昔憎んだ大人のやり口を知らず知らずのうちに踏襲しているんじゃないか。

 お酒を飲むことを今の自分が定義づけるとするならば、普段の「理性的」な認識の正体が、実は規範や社会的要請によって抑圧せざるを得なかった夾雑物を、見なかったことにしてなきものとする、狡猾で醜悪な理性の正体を反芻する行為だと言えるのではないかと思われます。
理性は、その働きが鈍ることによって非理性の側から、皮肉にもその正体を暴露されているのです。
だから、その理性による合理的で醜悪な韜晦術を暴くために、積極的に酒をのみ、酩酊し、気心の許せる友人の前で自分の正体を嫌というほど思い知り、いつか来る破滅の日に備えて、餞の盃を用意しておきましょう。
理性の卑劣さを肴に、一杯飲みましょう。
改めて、乾杯!
 
*追記(3/15)
件のビールはパウラナーへーフェ・ヴァイツというらしい。

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