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足利學校の企画展に行ってみた

今日は、通常の更新と予定を変更して、ある場所に出かけていました。
そのきっかけになったのは、いつもお世話になっている綱渡鳥さんの

このTweetを拝見したことでした。
幸い、ちょっと遠出くらいの距離ですし、これは行かない手はないだろう!ということで、さっそく足利に向かったのです。

①「足利」の街とは

「足利」というとやはり多くの方が聞き覚えがある名前ですよね。
そう、室町幕府を開いた足利家の本拠地だった場所です。

その歴史は古く、1137年(保延3年)にさかのぼります。
源義国が源義家から伝えられた開発地を、後鳥羽上皇が建立した安楽寿院に寄進し、足利荘という荘園が成立したことで歴史が始まります。

源義家

といえば、前九年の役に功をたて、1083年陸奥守兼鎮守府将軍に任じられ、後三年の役の鎮定後は、その戦いが私闘であるとして恩賞を出さなかった朝廷に代わり、私財を投じて武士たちに恩賞を与え、東国に源氏の基礎を築きました。
極めて武勇に優れ、「天下第一武勇之士」「八幡太郎」と呼ばれ、平安時代に力を伸ばした武士の象徴のような人物です。

その後、藤原秀郷の流れをくむ「藤原姓足利氏」が実質的にこの地を支配します。
藤原秀郷

といえば、近江三上山の百足退治の伝説、平将門討伐など、やはり極めて武勇に優れた人物でした。
藤原道長と同じ藤原北家の出身という説もあり、そうだとすればれっきとした「貴族」なのですが、この頃は貴族の血筋の中から軍事的な役割を担う「軍事貴族」が生まれた時期でもありました。藤原秀郷はその代表例と言えるでしょう。
ちなみに奥州藤原氏なども秀郷の子孫にあたり、「源氏」・「平氏」に次いで、全国の多くの武家にその血を残しています。

この藤原姓足利氏が源頼朝によって滅ぼされると、次に支配権を握ったのが源義家の血を引き、在京の軍事貴族だった「源姓足利氏」です。
元々は藤原姓足利氏と役割分担をして足利荘を支配していた

※現地の有力豪族だった藤原姓足利氏が現地を実質的に支配し、源姓足利氏は領家という立場で権威を与え、国司から干渉を受けないようフォローしていたようです。

のですが、藤原姓足利氏が滅ぼされたことでこの地の実質的な支配権を獲得します。


この源姓足利氏の子孫が、室町幕府を開いた足利尊氏

です。

もし、「姓」と「氏」の違いがよくわからない、という方は、私の以前の記事

が参考になるかもしれません。

こう考えると、源頼朝、足利尊氏、奥州藤原氏など、歴史上の超有名人にゆかりがある凄い場所なのです。

この足利の地、衛星写真を見ると

北・東・西は山に囲まれ、南には渡良瀬川が流れる天然の要塞になっています。
しかも周辺の山は石灰岩地層で、この地域では豊富で良質な水が得られます。地の利と水の利を兼ね備えていて、拠点としては申し分ない場所です。


② 「足利學校」とは

今回訪れた足利學校とはどのような場所なのか。

場所はJR足利駅からほど近く。
下の写真は、一番大きな建物である方丈(講義や学習、行事、接客のための大座敷)

です。
茅葺の立派な建物ですが、この建物を含め多くの建物は創建当初の物ではなく、近年になって復元されたものです。

実は、その創建については諸説入り乱れていてはっきりしません。
・奈良時代の国学(国立学校)であった
・平安時代に小野篁が創建した
・鎌倉時代に足利義兼が創建した
などです。

ただ、足利学校の繁栄をもたらしたのは、一時廃れていた学校に自らの蔵書を寄進するなど支援を惜しまなかった室町時代の関東管領(鎌倉公方の補佐役)、上杉憲実(1410~1466?)だったことは間違いありません。

その甲斐あって、1487(長享元)年頃の詩文では、

「足利の学校には諸国から学徒が集まり学問に励み、それに感化されて野山に働く人々も漢詩を口ずさみつつ仕事にいそしみ、足利はまことに風雅の一都会である」

と記されるなど、非常に学問に対する意識が高い場所になっていました。

その後も足利學校は発展を続け、1549(天文18)年には、かのフランシスコ=ザビエル

により

「日本国中最も有名な坂東の大学」

と世界に紹介され、最盛期には3千人もの学徒(学生)を抱えたといわれています。
主に儒学を教えましたが、易学・兵学・医学など幅広い学問を学ぶことができたといわれており、室町~戦国時代にかけては、東国の最高学府でした。

その後、後北条氏と足利長尾氏の滅亡で庇護者を失い衰退、江戸中期に郷学(藩士の教育や庶民の教育のために設けられた学校)として復活します。
学校としては明治5年にその役割を終えましたが、昭和57年から保存事業が実施され、多くの建造物が江戸中期の姿に復元されています。


③ 結局何の企画展に行ったの?

すみません、前置きが長くなりました💦

私が行った企画展は、

これです。

コンセプトとしては、

「元号」はどのようにつけられているのか知ろう!

というもので、足利學校の蔵書から、実際に元号に使われた部分をピックアップして、解説付きで見せてくれる…というものでした。

というわけで…足利の街に降り立ちました。

石畳の道の正面に見えるのが、足利学校の向かいにある源姓足利氏の氏寺、「鑁阿寺(ばんなじ)」です。

風情のある建物も残っています。

鑁阿寺は元々は源姓足利氏の屋敷でしたので、周囲に堀が巡らされています。

足利学校に行く前に、鑁阿寺にお参りをすることにしました。

周囲に堀があるので、入り口には橋が架かっています。
それにしても立派です。

屋根瓦には源姓足利氏の家紋「足利二つ引き」がありました。

橋を渡り、奥の門。その木組みに目を奪われました。

釘を一本も使っていないんです。凄いと思いませんか??

境内は実はかなり広いのです。

運よく紅葉の季節に当たったようで、銀杏が紅葉していました。
(画質を落としたら色が出なかった…💦)

先ほどの写真の建物(多宝塔)の木組み。もう言葉になりません。

こちらが本堂。立派です。

五七桐紋、菊紋、「足利二つ引き」が入っています。
五七桐紋や菊紋は天皇家の紋として知られていますが、足利尊氏が後醍醐天皇から賜った紋でもあります。

他の建物も一通り回ったのですが、やはり立派です。

さて、お参りも済んだので足利学校へ。歩いてすぐです。

堀と土塁の向こうに建物が見えます。茅葺の立派な建物です。

足利学校の入り口。風情がありますね。

最初にメインの建物である「方丈」に向かおうと思ったのですが、まずは目的を果たします。

会場はこちらでした。
「旧遺蹟図書館」という建物で、1915(大正4)年築。
和洋折衷の大正時代らしい建物です。

わかりづらいのですが、ガラスが現在のようにツルっとしておらず、微妙に歪んだり波打っています。
当時の板ガラス成型技術の限界によるもので、通称「ゆらゆらガラス」等とも言われるアンティーク好きにはたまらないガラスです。
当時のこれだけ大きなガラス板は、それだけでも貴重です。

残念ながら展示物の撮影は禁止でした。
11月4日までは、何と国宝の『尚書正義』

や『周易注疏』

が展示されていたようですが、私が訪れたのは12月1日でした。残念…。

展示物の写真撮影はできなかったのですが、ガラスケースの中に蔵書が展示してあり、学芸員さんの手による詳細な元号についての解説がついておりました。

私も以前、元号に関する記事

を書いたのですが…

さすが本職の学芸員さん!と思う部分もありましたし、何より蔵書の保存状態の良さに驚かされました。
この企画展は12月2日までですが、学芸員さん曰く、機会を見て色々な企画展をやるつもりです、とのこと。期待したいと思います!

企画展を堪能した後、メインの建物である方丈

などを回らせていただきました。

入り口の一部に天井をのぞける場所があったので一枚。

立派ですね。
ちなみに大黒柱

は35センチ角の欅だそうです。


④ おまけ

せっかく足利に行ったので、ちょっと周辺を散策してみました。
そこで出会ったのがこのおじさん。

「足利シュウマイ」なるものを売っていらっしゃいました。
2つ100円とリーズナブル。お味も良かったですよ。
何が入っているかは…とりあえず秘密です。

何より、このおじさんが面白かったです。
鑁阿寺の正面の門に向かって右側の路地のどこかにいます。
結構目立ちますので探してみてください。

そして、そば処いけもり

足利は蕎麦の組合があり、その組合が定期的にイベントをやっています。
現在は

こんなイベントを開催しています。
イベント限定のメニュー

もあります。美味しくいただきました。

最後に、お土産にお勧めのお店があります。
足利では「古印もなか」が有名なのですが、私がお勧めのお店は

「足利學校本舗」

です。
北海道産の小豆を使い、甘さもほど良く、私は大好きです。
ちなみに瓦せんべいも美味しいですよ!

というわけで、今回は足利をめぐってみました。
本当はカフェ巡りもしたかったのですが、今回はタイムアップ…。
足利は良いカフェも多いので、リクエストと時間があれば(汗)、足利市巡り第2弾を考えたいと思います。


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