孔子2

「有徳人」から見る日本の寄付文化 後編

前回の記事では、
現在、日本の寄付は現在は比較的低調であること
一方で戦前は寄付文化が活発であったこと
を取り上げました。

今回は、もう少し遡り、日本の寄付に対する価値観はどのようなものであったかを考えていきたいと思います。



日本の「寄付」に対する思想

日本の寄付文化の歴史で面白いのは、中世に「有徳人」と呼ばれる、積極的に寄付活動を行う富裕層がいたことです。
彼らは古くからいた高貴な家柄ではなく、商業や荘園経営などで財をなした、いわゆる新興勢力でした。

彼らはなぜ積極的な寄付活動を行ったのか、古代~中世にかけての寄付に対する価値観から考えてみたいと思います。


日本の寄付文化の源流を遡ると、以下のようなの代表的な寄付の動機に行きつきます。

①地位がある者が「徳」を示すための寄付
②富(得)を得た者が、社会に還元するために行った寄付
③宗教観(主に仏教・神道の思想)に基づく寄付

です。


これらについては、主に2つの価値観が動機づけになっていると考えられます。

まず、孔子による儒教思想に見られる「有徳」の考え方です。

孔子は、全員が人格的に優れていれば争いは起きず、礼も保たれ、国家は平和な状態で安定すると考えました。
そのためには、まず為政者が有徳者となり、民衆を教化し、全員を有徳者にする必要があると説きました。

有徳者とは、
仁愛に満ち溢れ
民衆に共感する心が強いため、権力におぼれることなく
自分だけでなく、他者の人格もより高みへと導こうとする
人のことです。

儒教における「仁」とは「他者に対する同情や共感の心」です。
儒教では、万物は天地から生まれたため(生まれが同じなので)共感することができるという発想があります。
孔子は、誰もが仁を持っているので、仁を行動で表すこともできると説きました。
仁の要素として重要なのが、「忠」と「恕」です。
忠とは自分自身への誠意です。これは自分と向き合って内省することで実現されます。
恕は思いやりのことです。これは自分に向けるのと同じくらいの真心を他者に向けることで実現されます。

日本では、仏教より儒教の方が伝わるのが早かったと言われているので、日本の思想を考える際に孔子の思想は重要な位置を占めると思います。


そしてもう一つは仏教の世界観です。

日本の仏教は、古来の祖先崇拝と融合しながら、自らの魂の救済を追求する霊的な部分と、氏族や自分自身の繁栄という現世利益を求める部分が共に発展しました。
今でも、現世利益の部分については神仏やご先祖様に合格祈願をする光景などに名残が見られますね。
一方、霊的な部分については中尊寺金色堂のように浄土の世界をこの世に表現しようとする者、信仰を通して自らが仏になる道を模索する者、仏に祈ることで救済を求める者など、時代や宗派ごとに様々な信仰の形が生まれました。

仏教の世界観と日本の寄付文化の繋がりで注目したい点が2つあります。
ひとつ目が、「浄・不浄」の概念です。
この考え方に基づく言葉として、「浄財」という言葉があります。

浄財とは「きよい財物」、つまり「(利益や報酬を求めず、真心から差し出す)よごれ・にごり・くもりなど がない美しい財物」という意味です。

また、仏教には「お布施」という言葉もあります。

施しをすることで徳を積み悟りを開く(救われる)という発想は、仏教的な影響が強いものです(仏教における修行、六波羅蜜のひとつ)。
仏教では、僧侶でない人々が徳を積む方法として、寺院や僧侶に施しをする(布施)ことは一般的です。

ただ、現在の日本の場合は、このお布施をする動機がかなり現世利益の方向に傾いているように思われます(お布施をする代わりに願い事をする)。


さらに、お金に対する考え方も併せて考える必要があります。
近世における大阪商人の言葉に「きれいに稼ぎ、きれいに使う」というものがあります。
かつて、積極的に多くのお金を稼ぐことは「貪欲さ」に結び付くものとして(今でもその傾向はみられますね)、仏教でネガティブなものとして認識される「欲」の象徴のように扱われる側面があったようです。
つまり、「お金=不浄」という感覚が少なからず存在したということになります。
特に、金融や税関係(世間では「汗水流して稼いだものではない」と認識されがちなもの)にその傾向があります。
ヨーロッパにおけるユダヤ人の金融業進出の経緯や、最近では麻生財務大臣の仮想通貨(暗号通貨)税制改革に対する答弁などを見ても、その価値観は古今東西問わず一定程度受け継がれていると考えられます。


さて、有徳人に話を戻しますが、彼らは古代~中世に成長した開発領主や商人たちです。
彼らはその貪欲さを神仏に咎められることを恐れ、「徳」を積むために積極的に寄付を行ったと言われています。

彼らは「有得人」とも呼ばれました。
つまり、「財を得たもの」という意味で、先述の内容から見るとあまりポジティブな意味ではありませんね。

庶民の感覚からすると、「貪欲に財を得たのだから、当然寄付という形で徳を示すべきだ」というプレッシャーも感じる呼び名です。

有徳人たちは、
寄付をすることで徳を示すことができる
と同時に、
寄付をすることで清められる
という発想で寄付を積極的に行ったと考えられます。

寄付することで清められ、財の下僕ではなく主となり、「貪欲」から解放されて魂が浄化され救われる…という考え方です。

浄財という言葉には、「清い財物」という意味合いと同時に、「寄付者の魂を清める」という意味合いが隠されていると考えるとイメージがわきやすいと思います。


つまり、かつての日本の寄付文化には「徳」「浄」という2つの動機があるのだ、と考えて良いと思います。

例えば前回の記事で挙げた旧開智学校であれば、「新時代を担う子供たちに良い教育をしたい」という「仁愛」に満ち溢れていますし、「自分だけでなく、他者の人格もより高みへと導こうとする」という徳の概念と合致します。

一方、有徳人を見ると、「徳」ももちろんですが、「浄」の意識も働いているように見えます。

いずれにしても、儒教の「徳」の概念は日本人の寄付文化の根底にあったと考えて間違いないでしょう。


今後の日本の寄付文化

現在の日本の寄付文化が低調なのは、
「動機がない」
という原因が大きいと考えます。

逆に考えれば、「動機があれば」人々は積極的に寄付を行うとも言えます。日本人は寄付の「意識がない」のではなく、普段は「動機がないので積極的に動いていない」だけなのではないでしょうか。

それを証明したとも言えるのが、今回の西日本豪雨などの災害です。
被災地を救おうと、多くの人々が募金・ボランティアなどに積極的に関わっています。

前回の記事の「見知らぬ人々を助けない」という話についても、広島大の学生が立ち往生しているトラックの車列におにぎりを配って回った、などの報道を見れば、「意識」の問題ではなく「動機」の問題なのだろう、と感じます。

上記のように、日本人の寄付文化には儒教思想や仏教思想が深くかかわってきました。
しかし、戦後になって儒教教育は積極的に行われていませんし、宗教意識の希薄化は進む一方です。つまり、普段から寄付をするための動機は、戦後になって失われているということになります。
これが、日本が「普段から」という指標で寄付を考えた場合、積極性に欠けると映る理由だと考えます。

いざという時(災害など、動機がある時)には積極的に動く、という考え方も寄付文化では良いのではないかとも思うのですが、一点、気になる部分があります。

高額寄付者に対して「売名」などと揶揄するような風潮が見られることです(特定の職業に多く見られる傾向がありますが)。
儒教思想では、高額納税者は多くの「徳」を積んだわけですから、讃えられこそすれ貶められることはないはずです。
しかし、日本の場合は、「徳」の概念が失われていくと同時に、高度経済成長で経済力が急速に増大しました。
そのため、お金を稼ぐことに対する「不浄」「貪欲」の概念のみが強く残ってしまい、このような風潮を招いているのではないかと思います。
この部分は、「徳」という概念自体が希薄化しつつあることの表れと感じるので、危惧しているところです。

「徳」は、日本で受け継がれた寄付の最も大きな動機です。
儒教教育を復活させよ、とまで言うつもりはありませんが、少なくとも「徳」の概念は、倫理教育の中でもっと重視して良いのではないかと思います。

もし、普段から積極的に寄付をする社会を実現するという方向で改革をするのであれば、税制改革よりは「徳」の教育を行い、寄付の動機づけを復活させるべきであるというのが私の考えです。


だいぶ長くなってしまいましたので、寄付についてのお話はここで一度締めたいと思います。

いずれ、お金に関する歴史のお話も書こうかな…。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました!


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