見出し画像

日本史のよくある質問19 「武士」とは②

前回の記事

では、武士とは何なのか、その成り立ちについて考えてみました。

一口に武士と言ってもその出身は様々。

・「受領」とそれに従う「館の者共」や「侍」
・私領を守るために武装化した「開発領主」

これらを総称して「武士」と呼んでいます。

このことをもう少し掘り下げてみます。
例えば「受領」というのは中~下級官人たちがなるもので、摂関家などの位の高い、いわゆる「貴族(上級官人)」がなるものではありませんでした。
貴族の最下級である従五位は、主要国の国司(守)を務めるという感じです。

当時の官位は

こんな感じ。(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

実は、官位によってなることができる役職がだいたい決まっています。
これを「官位相当の制」といいます。
つまり、低い官位の者が権力が強い役職には就けませんし、その逆も然りでした。

ところが、官位相当の制の例外だったのが「令外官」
後になって追加された役職で、中納言や検非違使、蔵人頭などはそれにあたります。
例えば菅原道真

は、官位は低いながら宇多天皇の信任を得て蔵人頭として抜擢され、実績を積んで官位を上げ、醍醐天皇の時代には右大臣に任じられました。

官位が低い者については、稀な例ですがこういった「裏技」で出世させることもできました。
(この辺りは、いずれ律令体制について考えていく際に触れたいと思います)
ただ、これは例外中の例外。
従五位以上とそれより下にはかなり大きな壁がありました。
従五位以上の子弟は、「蔭位の制」と呼ばれるシステムで、自動的に一定以上の官位をもらうことができました。
このシステムは「貴族」という特権階級を維持するためのもので、基本的に「貴族」の家は代々入れ替わらない仕組みになっていたのです。
つまり、貴族とそれより下の官人では、代々の扱いに天と地ほどの差があったことになります。


恐らくここまでの話を読んで、中には例えば一般的な「平氏」に対するイメージ、つまり平清盛

が築き上げた平氏政権の絶頂期。
「平氏にあらずんば人にあらず」などと言わしめたあの時期の平氏を思い浮かべて、違和感を感じるのではないでしょうか。
彼らは間違いなく「武士」なのですが、官位も高く「貴族」として振る舞っています。

彼らのような上級の「貴族」たちが「武士」であるというのは、今までの話とつながりません。
武士は主に受領(中級以下の官人)や開発領主(現地の有力者)だったはず。


実は、平氏や源氏、そして藤原氏などの中には、独特の経歴を持つ人たちがいます。
ちなみに平氏や源氏は、元々は皇族でしたが、臣籍降下により貴族になった人たちです。
しかし中には、没落して中下級官人にまで落ちぶれてしまった家もありました(藤原氏の中にもそういった家があります)。

ただ、彼らの中に特技を持つ者たちがいました。
その特技とは「武芸」です。
落ちぶれているさ中、先祖が受領として主に東国に派遣されていた際、俘囚(投降した蝦夷)の馬上戦闘技術や弓術などの軍事技術を吸収し、他にはない「武芸」を身に着けたのです。

平安時代後期は、社会的な慣習として「死」や「血」が極端に忌み嫌われていました
(藤原氏代々当主のの「お墓」がないのはそのせいともいわれます)
当然、多くの官人や貴族達にとって、「戦い」に携わるのは非常に忌まわしいことでした。
下級官人にまで落ちぶれていた彼らですが、積極的に野党の鎮圧や犯罪人の追跡など「汚れ仕事」を買って出ることで、朝廷内になくてはならない存在としてのし上がっていきます。

彼らの当初の官職は、滝口の武士、北面の武士など院や皇族の警護役、さらに蔵人や検非違使など、令外官を歴任して実績を積んでいきます。

しかし彼らの多くは、そのままスムーズに官位が上がったわけではありません。
やはり彼らは、貴族たちにとって「汚れ役」。
その扱いは決して良いものではなく、菅原道真のようにはいきませんでした。

そして、その扱いに対する不満はついに噴出します。
それは、平将門の乱(935〜940)

藤原純友の乱(939〜941)、つまり承平天慶の乱です。
この2つの反乱は非常に大規模で、大宰府や各地の国府が攻撃されたり攻め落とされるなど、朝廷の支配を揺るがす大事件でした。

しかし、この反乱を鎮圧したのもまた「武芸」に長けた者たち。
朝廷はこの反乱の後、同様の反乱が起きないよう彼らの扱いを大きく変えていきます。
つまり、乱の鎮圧で活躍した(彼らの中で力ある)者たちを、五位や六位など、受領(国司の最上位)になることができる官位まで引き上げたのです。

彼らは各地に受領として赴き、現地の「武士」達を従えつつその力を増していきます。
さらに11世紀になると、朝廷内では官職などが家の中で世襲(代々受け継ぐ)されていくようになります。
当然その流れは彼らにも及び、彼らは軍事専門職としてその役割を世襲していくようになります。

その中でも特に力をつけた者の中には、官位が四位になる者もあらわれます。
為憲流藤原南家、利仁流・秀郷流藤原北家清和源氏、国香流桓武平氏です。
さらに言えば、正四位になったのは清和源氏、その後桓武平氏。
清和源氏でいえば源頼光

など。桓武平氏で言えば平忠盛(清盛の父)

です。

彼らは「軍事貴族」「武家」として大きな力を持つようになります。

さらに、この「軍事貴族」は、武士たちを束ねる「棟梁」と認識されるようになります。

少しまとめてみると、

・「武家」は「軍事貴族」であって、一般的な武士とは一線を画する存在
・「軍事貴族」の家柄は、天皇家や摂関家である(高貴な血)
「軍事貴族」が「棟梁」たる条件

ということですね。
つまり、「棟梁」になる条件として「高貴な血」を引いているかどうか、は必須に近いものだったのです。

実はこのことを理解していると、その後の武家政権の色々な違和感が腑に落ちてきます。

次回の記事では、その辺りを踏まえて、平安時代後期~鎌倉時代の武家や武士について触れていきたいと思います。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

この記事が参加している募集

サポートは、資料収集や取材など、より良い記事を書くために大切に使わせていただきます。 また、スキやフォロー、コメントという形の応援もとても嬉しく、励みになります。ありがとうございます。