多賀城

日本史のよくある質問 その5 征夷大将軍って何者?②

前回の記事では、蝦夷のリーダー「阿弖流為」と、征夷大将軍「坂上田村麻呂」という2人の人物について紹介しました。

今回の記事では、両者の関わりを通して「征夷大将軍」の本来の役割を考えていきたいと思います。


というわけで、今回のテーマは

坂上田村麻呂に見る、征夷大将軍の役割

です。


まず、8世紀末の朝廷と蝦夷の争いの発端になったのは、「伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)」という人物が起こした反乱(宝亀の乱)でした。

呰麻呂は、元々蝦夷の中では親朝廷派のリーダーで、朝廷から現在の宮城県南部の支配者として、蝦夷ににらみを利かせる立場でした。
(官位も持っていましたので、かなり信頼されていたと考えられます)

しかし彼は、徐々に朝廷に対する不満を高め、780年、反乱を起こし、多賀城を焼き討ちにします。

上が多賀城の復元模型。「城」というより「役所」ですね。


そもそも朝廷が8世紀になって蝦夷地の征服に積極的になったのは

・廬舎那仏(東大寺の大仏)建立のために大量の金が必要だった(東国は金の産地)
・今までの税体系が崩れ、朝廷が財政難に陥っていた
唐の弱体化で、日本は外交上「異国(蝦夷など)を制している帝国だ=他の朝貢国より上)」と強調する必要がなくなった

などがあります。
そのため、朝廷は土地が豊かで資源に恵まれている東国を、「異国」としておくのではなく、積極的に領土に組み込もうとしたのです。


戦いの際には、軍事力に優れる蝦夷と直接的に交戦するのではなく、蝦夷同士の内部紛争に介入する形で、蝦夷地での親朝廷派の力を強める方策もとられました。
呰麻呂のケースはその典型ですね。

東国の人々の軍事力が優れていたのは、日本史でいえば「防人」「平将門の乱」「治承・寿永の乱」「奥州藤原氏」など、多くのキーワードで出てくる部分ですので、また後程記事にしていきます。


土地勘のない遠隔地で強力な軍事力を持つ蝦夷を相手にすることは大変な危険を伴う任務でしたし、時には和平交渉など政治的な判断を求められる局面もありました。

その例として、阿弖流為と田村麻呂の関係を見てみましょう。


精鋭ぞろいの阿弖流為の反乱軍に対して、田村麻呂は正面から大規模な決戦を挑まず、周囲の切り崩しを図ります。

まず、本拠地を呰麻呂の反乱で焼失した後再建された多賀城(現在の宮城県仙台市辺り)にかまえ、蝦夷に対して積極的な交易を展開し、稲作の最新技術を伝えます。
さらに、東北地方土着の神々に仏の位を与えて取り込みつつ仏教の浸透を推進、このようにして徐々に西国の経済と文化を浸透させていきます。
これらの動きの中で、田村麻呂のカリスマ性も大いに発揮されたと考えられます(よく考えれば、直前まで戦争をしていたわけですから…)。
このようにして、徐々に蝦夷の人々の中にも朝廷になびく者たちが増えていくことになります。


そして、十分に味方を増やした田村麻呂は、802年、ついに大きな動きを見せます。

それは「胆沢城」の建設です。


胆沢とは、現在の岩手県奥州市。
阿弖流為の本拠地の目と鼻の先です。

つまり、阿弖流為に対する「そろそろ本格的に攻め込むよ?」という強力なプレッシャーです。

阿弖流為は、圧倒的な兵数の朝廷軍、田村麻呂の武勇と智謀、胆沢城の建設、他の蝦夷の動向を見て、勝機なしと判断したのか、一族郎党を率いてついに降伏します。


その後、田村麻呂は、阿弖流為を生かしたまま平安京に連れていきます。
そして、「阿弖流為は優秀な人物で、蝦夷達の信頼も厚い。彼を生かして、蝦夷地経営を任せるべきである」と力説します。

しかし、呰麻呂のトラウマもある朝廷にとって、その提案は受け入れがたいものでした。
朝廷内でも激論が展開されたものの、結局、田村麻呂の意見は却下され、阿弖流為その参謀母礼(モレ)と共に処刑されてしまいます。

実は阿弖流為は、「田村麻呂は信頼できる男だ。彼であれば悪いようにはしないだろう」と言って降伏に踏み切ったと言われています。

阿弖流為と田村麻呂は、争いの中でお互いの有能さを認め合っていたようですね。
しかし、10年間も田村麻呂率いる朝廷の大軍と戦い続け、最後は敵を「信頼できる男だ」と言える阿弖流為の度量も凄いと思いますが…。

彼らの慰霊碑が、田村麻呂が建立した京都清水寺の境内にあります。
この慰霊碑は、平安遷都1200年を記念して1994年に建立されました。


さて、この二人の動きから、征夷大将軍ができることをまとめてみます。

征夷大将軍は…

①遠征地に行政府をつくることができる(これを「幕府」という)
②天皇の持つ軍事権が、委任されている
③外交判断も、ある程度委任されている

という、他の将軍にはない権限が与えられていました。

通常、行政は国司が担当するものですから、①の権限は特例中の特例です。
実際、田村麻呂も長期の遠征の中で、徴兵や徴税なども含め、行政の長としての役割も担っていました。

②、③についても、かなりの独自判断が認められていました。
阿弖流為を(最終的には処刑されましたが)助命したり、蝦夷に懐柔政策を取ったり、城砦を建設したりもしていますね。


つまり、征夷大将軍は

「軍事と行政において、天皇から委任を受けた独自の決定権がある将軍」

なのです。つまり、もう少し言い換えると、

「天皇の権威を背景に、独立政権をつくることができる将軍」

とも言えます。

もしかしたら、この辺りで源頼朝以降の征夷大将軍のお話についてピンときた方もいらっしゃるかも…。


さて、少し長くなってきましたので、次回、「朝廷と征夷大将軍の関係」について触れて、征夷大将軍のお話は締めたいと思います。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!


※おまけ

紀古佐美が阿弖流為との決戦に挑まなくてはならなかったのは、彼が不幸にも788年に将軍に任じられたことにあります。

この時、朝廷は称徳天皇と道鏡をめぐる騒動(宇佐八幡宮神託事件)や、長岡京の造営長官、藤原種継暗殺など、ネガティブなニュースが続いていました。

天皇の権威にこれ以上傷をつけないためにも(遷都を控えているので)蝦夷征討だけは何としても成果をあげる必要があったのです。
そのため、紀古佐美は蝦夷との早期決戦を朝廷から急かされ、一気に攻め込んだ結果、逆に大敗してしまいました。

そう考えると、ちょっとかわいそうな気もしますね…。


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