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「人の話を聞く」ことの難しさ~天才へのヒント~

人の話を聞く。

この行為は日常生活の中で我々が当たり前のように行っていることだ。現代においてその手段はなにも直接人と会話するにとどまらない。

大学生の一日を例にとると多分こうなる。朝起きたらまずテレビや携帯でニュースやラジオを聴く。大学に行って友達とくだらない話をする。教授の難しい講義を聞く。放課後はサークル活動でこれまた友人と話す。バイト先では一般の人の注文を受けたりする。夜は家に帰って家族と話したりYoutubeやアニメをみる。

当たり前のことだけれど、こうしてみると普通の一日のなかにも色んな種類の「聞く」がありそれぞれの情報量の程度は全く違うことがわかる。例えばニュースは一般に、ややこしいものもあるが基本は流し聞き(hear)で済む。日常会話や娯楽動画なども同じで、これらはもはや聞くことに集中力などいらない。一方、大学の講義など難解な話は、それを理解するために集中して聞く(listen)必要がある。

なんでこんな話をし始めたかというと、自分は実は意外と人の話を聞くのが苦手だと思うことがしばしばあるからだ。

・聞いたはずなのに消えた記憶

私は現在大学生でこれまでいくつも大学の講義を聞いてきた。そうするとなかには自分がとても好きな学問などもあり、授業に加えて自分で教科書を読んでより深く学習してみたくなるものに出会う。そうして教科書をプラスアルファで読んでいると、時々「これは授業では扱われていない内容だ」と思われる事項に遭遇する。それが比較的重要でキーポイントであったりすることもあり、そうした内容を発見して理解できると、教科書学習の効果を実感するわけである。

ところが、後になって自分の板書ノートを見返してみたり友人と話していると、実はその内容は一応授業で触れられていたと発覚することがある。すなわち、自分も一度はその内容を先生の口から耳で聞いてノートにも書いたはずなのに、頭の中ではその内容が書いた記憶ごと消えていたというのだ。

別に私はその授業を適当に受けていたつもりはないし、自分が興味のある学問なのだからそんなことをするはずもない。また居眠りしていたなどということも当然ない。なぜこんなことが起きたのだろう。私なりに色々考えてみた。

・話を聞いて理解することの難しさ

原因はおそらく一つ。「話し手の論理を正確に把握し、その人の意図する論理のままに内容を理解するのが苦手だから」であろう。

当然の話だが、人が何かを伝える際、その話の内容がちゃんと伝わるように論理構造やストーリーをしっかり組み立てて話すのが普通だ。「基礎→発展」だったり「起承転結」の場合もあれば時系列順のこともある。これらに共通していることは最終的な帰着点はみな同じであるということだ。ただ、そこにどのようにたどり着くかは話者の話す道順によって変わってくる。したがって、その話が論理的に複雑な構造をしていればいるほど聞き手は今自分がどこにいてどこに向かっているのかを把握するのが難しくなるのである。

また、話の長さも関係しているだろう。例えばたとえ少々難解な内容の話でも3分で終わる話であれば、何とか最後まで聞き通せる人は多いはずだ。しかしこれが1時間、90分、2時間となると話は変わってくる。ただ一つの結論にたどり着くために様々な前提知識やその論理的整合性、比較事項などを一斉に考慮すると話は長くなる。それゆえに授業や講演として時間をとって話の場が設けられるわけだが、こうなると時々聞き手は、自分が今、論理の道順のどこにいるのかわからなくなることがある。今話されている内容と元の話の関係性がわからなくなるのである。

もちろん話者はゴール地点がわかったうえで話しているのでそれこそが最善の道なのだが、その道を始めて通る聞き手からすれば、手探りでしかなく、場合によっては道の途中で迷うことになる。これこそが聞いたはずのことが記憶から消える理由であろう。

・「話を聞くこと」から考える天才のヒント

だからこそ思う。人の話を聞くことができる人はすごい。もう少し具体的に言うと、「難解で複雑な話を、一度聞いただけで正しい道順で追い、自分でスタートからゴールまでたどれる人」はすごい。これができることは非常に優秀だと感じる。言ってみればこれは、見知らぬ土地で出発地と目的地の示された複雑な地図を一目見ただけで、以後それを見ずにゴールに難なくたどり着ける能力のようなものだ。

そして時にはさらにすごい能力を持つ人がいる。彼らは来た道を基点として独自に自分で経路を設計し次の目的地へと歩きだしたりする。つまり、自分が通った論理の道順を応用してさらに発展的な思考ができるということだ。これはかなり稀な例ではあるがこうした人のことを「天才」と呼ぶのであろう。

・「話を聞けていない」と自覚すること

以上、人の話を聞いて理解することについて色々書き綴ってきたが、勘違いしないでいただきたいのは、なにも私は自分が頭が悪いとか理解力が低いとか嘆きたいわけではないということだ。というより私のような人のほうが一般的ではないだろうか。でなければおそらく義務教育に通うほぼ全ての人間が有名高校に進学し、さらには東大に進学できるはずだ。

上述した気づきをもって私が言いたかったのは、人の話を聞いて理解するのは案外難しいということ、そしてそれ故に自分なりの方法でじっくり咀嚼する必要があるということだ。大学生の私の例では自分で教科書を読むというのがそれにあたるし、話を繰り返し聞くのが良い場合もあれば、自分で時間をとってゆっくり考えてみるのがいい人もいるだろう。いずれにせよ、物理的に聞いた話に対して、「自分は話を聞いたようで実はちゃんと聞けていないのではないか」と自覚し、疑うことが大切だと思う。

一番よくないのは一度聞いたからといって独自の解釈で早とちりしてわかった気になってしまうことだ。こうなると自分の誤った理解を疑わずにことを先に進ませてしまい、余計に話が分からなくなる。

まず相手のペースで話を聞いてみる。わからなかったら自分でじっくり考えてみる。それでもわからなければもう一度聞いたり、本や他の媒体などに頼ってみる。そうやって自分の中に新しい知識や価値観を取り込んでいく。情報のアップデートはstep by stepだ。結局、自分は天才ではないのだから焦らず着実に歩を進めるしかない。そんな当たり前だが重要なことを再認識させられた今日この頃であった。


お読みいただきありがとうございました。

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