mokko’s物語 作曲家の夢をあきらめるまで
僕は友人に一年間、毎日楽曲を作ることを宣言してしまった。
この頃は残念ながら、まだ一曲しか作っていない状態で
正直、勢いで言ってしまったものの、
“やっちまった。明日から本当にできるのだろうか”
できなければ信用というものが一気になくなってしまう。
授業が終わり次第ダッシュで家に帰り、そこからバイトとバンドの練習以外の予定は全てキャンセルし、
ギターをとにかく弾きまくっていました。
左手の指先が痛くて、痛くてなんで言ってしまったのか
今更ながら後悔の念が頭をよぎりましたが、
とにかく一日目はGLAYのグロリアスという曲を練習していたら、これまたできた。
頭にメロディーが浮かんだ瞬間ガッツポーズをしていました。
安堵と疲れでその日は気づいたら爆睡していました。
そこから2日、3日と奇跡的にメロディーが浮かんだのですが、1週間後、
全然メロディーが浮かばず、焦りがやってきて、
どんな曲を聴いても浮かばないので、
“潔く負けを認めようか”思っていたのですが、
自分が決めたことだけは絶対あきらめたくないという昔からの負けず嫌いがでてきて、
このままではいけないとふと買い物に出かけたら、
そこでたまたまコブクロさんの宝島という曲が流れていて、
それが何故か印象に残ってピアノで弾いてみたら、そこからインスピレーションされてメロディーを作りあげることができました。
何とか1週間休むことなくメロディーができて、バンドの飲み会に行った後に酔っ払ったことでハイテンションになって曲を数曲作ったり、
はたまた風邪をひいて38度の熱をだした時でもとにかく曲を作ることだけはやめずに
限界を迎える度に自分との闘いで、
自分の言ったことを諦めたら、また友人の“れみたことか”という言葉が出されるのだけはもう恐怖で、自分のとの約束を果たせなかったらまた代わり映えしない日常に戻るのが怖かった。
最初は、友人と会う度に嘲笑される言葉を投げかけられていましたが、
半年が過ぎるくらいになった時、誰も馬鹿にすることはなくなっていた。寧ろ応援してくれるようになっていました。
“お前ならやると思っていたよ”
なんて言葉を言われた時は、“自分に勝った”そう思った。
この頃には、一曲にかける時間も数時間で出来上がるようになり、
最初の頃は半日近く時間をかけないと出てこなかったものが、だいぶ早くできるようになっていた。
そうして、1年間楽曲を作り続けて、歌詞だけのこともあれば、メロディーだけのものもありましたし、夜遅くにできたものは小声で録音したものもあったが、
なんとか作り続けて、カセットテープ20本くらいと大量の作詞が入った袋を見た時、
僕は作曲家になりたいという願望が出てきていた。
丁度、キーボードの教室の飲み会でDTMで作曲をしている方に出会い、意気投合して
僕の楽曲を聴いてもらったら、
“めちゃくちゃいい曲だね、僕は東京に行ってプロになろうと思っているが、一緒に来ない”と誘われました。
僕の中で千載一遇のチャンスだと思ったし、自分との約束を守ることができたのなら、行ってもいいんじゃないか?
そう何度も自問自答し、真っ暗の天井を眺めながら毎晩悩み続けたが、
いつも脳裏で引っかかるのは、僕はあがり症でライブの演奏でも観客を見ることさえできない状況だったことと、
僕はサラリーマンになって家庭を幸せにするというものしかこれまで夢見ていなかったので、
一回できたからといって、いつまでも曲が作り続けられるとも限らない。
チャンスvs 安泰。
もう天秤にかけても仕方ないのと、親を説得できるだけの根拠がどうしても見つからなかった。
そうして、友人には一緒に東京には行けないことを伝えて、彼は夢を追って花の都、東京へ旅立っていった。
今思えば自分自身、良い選択をしたと胸を張れますし、プロになるには考えが甘すぎてプロで食っていくことの難しさは夢を抱くだけでは成し遂げられないことをのちに出会ういちろ先生を見れば歴然だった。
そうして、僕はその後もバンドの練習と作曲に明け暮れて、卒業する頃にはカセットテープの数は50本を越えていました。
そうして、夢としていたサラリーマンになるのですが、
そこからが本当の試練になるとはこの頃は知る由もなかった……。
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