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小説 「僕と彼らの裏話」 41

41.勇士の帰還

 先生宅のガレージに、初めて自分の車を停めた日。先生と悠介さんが、新幹線とタクシーを使って無事に帰ってきた。そして、彼が帰ってくるからこそ「2人とも来てほしい」と依頼され、久方ぶりに僕と藤森さんの両方が出勤することになったのだ。
 その日の朝、合鍵を持つ僕が先に先生宅へ入り、彼女を迎え入れた。
 彼の心臓のことや現在の様子について、彼女も、先生から しっかり聴いていたようだ。

 午後になってから、お二人が帰宅した。
 彼が、誰かの肩を借りて帰ってきて、家に入るなり玄関で腰を降ろす姿は、すっかり「お馴染み」ではあるけれど……今回の彼の意気消沈ぶりは、尋常ではない。そして、今の彼は、先生との同居を始めた頃と同じように、黒いマスクを着けている。それは、彼の体調や精神状態が極めて不安定であることを示しているに等しい。
「おかえりなさい」
僕が そう言ってみても、彼は応えなかった。何も見えていないかのような眼をして、背中を丸めたままだ。
「自分の家だぞ、悠介。帰ってきたぞー」
先生が穏やかに声をかけながら、2人分の手荷物を僕らに渡したり、彼の肩に触れたりするけれど、やはり彼は全く反応せず、靴を脱ごうともしない。
「暑かったからなぁ……疲れたな」
 先生が何を言っても、彼は ずっと黙りこくっている。頷きもしない。

 最終的に、先生が彼のマスクを取り外し、ペットボトルを持ってやって彼に水分を摂らせてから、靴を脱がせ、僕が彼を おぶって和室に運んだ。
 随分と痩せてしまった彼の体は、想像より ずっと軽く……熱かった。
 藤森さんが敷いてくれた布団に彼を降ろし、先生が体温や心拍数を確かめる。どちらも「高すぎる」ということで、僕らは ただちに氷枕や扇風機、冷やしておいたスポーツドリンクを用意する。
 以前なら1.5リットルの大きなボトルから直接がぶがぶ飲んでいた飲料は、先生が応接室から持ってきた来客用の湯飲みに注いで、慎重に飲んでもらう。

 暑さと、人混みの中の長旅で、すっかり参っているのだろう。真っ赤な眼をした彼は、腹が膨れるほど水分を摂った後、年老いた犬がするような姿勢で横たわり、そのまま動かなくなった。
 僕でも、新幹線に乗った日なら、帰宅直後には ぐったりしてしまうだろう。


 彼のことを先生と藤森さんに任せ、僕は2階で夕食を作り始める。まずは米を研ぎ、2台ある炊飯器で、通常の米飯と お粥を炊く準備をする。(片方は、倉本くんが間借りしていた頃に買い足したものだ。)
 先生も、ひどく お疲れのはずだ。
 野菜を多めに、牛こま肉を ふんだんに使った炒め物を作る。そのために、食材は昨日のうちに買っておいたのだ。
 彼にも、出来ることなら食べてもらいたい。
 
 黙々と調理をしていると、先生一人だけが上がってきた。そのまま台所にやってきて、僕に告げる。
「彼の分は……下に運んでやってくれるかい?」
「わかりました」
そう言われるだろうと、予想は していた。
「手間をかけさせて、申し訳ない……」
「とんでもないです」
 僕が炒めているおかずを、先生は何やら満足げに見ている。お気に召したようだ。
「彼も、肉は食べられそうですか?」
「うーむ。……脂の無いところを選んで、とりあえず出してやってくれ。残したら、私が食べるから」
「わかりました」
 先生が まじまじと手元を見ている前で、僕は淡々と菜箸で料理を かき混ぜる。
「ところで……また、彼との『散歩』をお願いしてもいいかい?」
「はい、もちろん」
日光浴と、体力維持のための散歩だ。
「よろしく頼むよ。……あのままでは、本当に歩けなくなりそうだから」
「……心臓のほうは、もう大丈夫なんですか?」
「まぁ、そうだね。……あれ以降、特に異変は無いよ」
それなら、充分に回復の余地はあるのだろう。
「反応が乏しいのは……向こうのドクターには『精神科の領域だろう』と言われた。……私も、そう思う」
「…………何か、精神症状が悪化するような、強いショックを受けられたんですか?」
 先生は、小さく唸って、しばらく何かを考え込むような仕草をしてから、僕の手元に視線を落としたまま答えた。
「あいつは……【人生】そのものを、頑張り過ぎたんだ。あぁ見えて、根は至極 真面目な奴だから……」
確かに、彼は真面目だ。幼少期から、厳しい家庭環境の中、ずっと頑張ってきたことを……僕も、少しは知っている。
 返す言葉が、見つからない。

 藤森さんが上がってくる気配が無いことを確認したのだろう。先生は、階段のほうを一瞥いちべつしてから、一段と声を低めて言った。
「弟が、今も現場で使っている……定規だとか、ノギスだとか、タオルだとか。そういう小物は、ほとんど全て……義妹いもうとの遺品なんだ」
知らなかった。
「それを、今回初めて知った悠介は……少なからず、ショックを受けたようで……」
 先生の義妹、つまり、善治の亡き妻は、悠介さんにとっては「悲惨な死を遂げた先輩社員」である。そして、彼女が亡くなった当時、彼は「社長の後継者候補」だった。……遺族と企業側の、血生臭い泥仕合の渦中に居たのである。
「ろくでもない記憶の【蓋】が、また開いてしまったのだろうね……。そして、だからこそ、新しい勉強を頑張り過ぎたんだろうなぁ……」
 僕は何も言えない。
 フライパンだけが、じゅうじゅう鳴っている。

 しばらく口を噤んだ後、料理ばかり気にしていた先生が、まっすぐに僕の顔を見た。
「本当に申し訳ない。君だって、忙しい時期だろうに……」
「とんでもないです」
 先生は目礼し、やがて、静かに笑い出した。
「ただ……負け惜しみのようだけれども、良い事もあったんだ」
「何ですか?」
「あいつが、煙草を やめられた!」
「おぉ……!!」
確かに、それは「良い事」だ。
「それと……あいつが寝ている横で、私は ずっと『プロット』を書いていたんだ。すごく進んだ!」
「……例の、児童文学ですか?」
「そうだよ。……今回は、彼との【合作】だ」
「えっ。悠介さんと、ですか!?」
「あぁ、そうだ。私が紙に書いたものを、彼に見せて……面白いかどうか、ジャッジしてもらった。幾つかの選択肢から、彼に選んでもらって、決めた部分もあるよ」
それは きっと 彼の脳にとって、すごく良い刺激になっただろう。
「彼は少年漫画が大好きだから……熱い展開になってきたよ!」
先生は、心底 楽しそうにそう言った。
 僕も、熱い少年漫画は大好きだ。
「……本が出来上がったら、ぜひ読ませてください」
「もちろん!」
 その後、先生は最新作を「吉岡 悠介」の名で出そうかと言い始め、僕は「素敵な お名前だと思います」と応えた。


 夕食が出来上がり、2階での配膳が終わった後、僕は お粥と幾つかの小鉢を載せたプレートを手に、1階に降りた。
 和室まで行くと、藤森さんが、自分のスマートフォンを使って、横になったままの彼に動画を見せていた。僕には、それが「落語」であると、すぐに判った。
 あれほど ぐったりしていた彼も、今は落語の内容に興味を示し、何も言わないけれど、少しだけ舌を見せて、にやにや笑っている。
 僕は、それを見て、すごく安心した。

 僕が食事を運んできたことに気付いた藤森さんが、すぐに押入れを開けて折り畳みの机を出してくれた。
 その上にプレートを置き、食事が用意できたと彼に伝えると、彼は ゆっくりと一人で起き上がり、布団を汚さないためか、畳の上に降りた。それ以降は その場から動かず、僕らが両側から机を持って彼のほうへ近づけると、彼は自ら箸を持って、真っ先に肉を食べ始めた。
「食欲があって、良かったです」
 その後、僕らが何を言っても、彼は非常に ゆっくりとした動きで、黙々と食べ進めた。

 この人は、強い。
 重圧や病魔に、負けてなどいない。


次のエピソード
【42.小さな「至宝」】
https://note.com/mokkei4486/n/n6a635638403b

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