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「四十にして惑わず」と『彼女の家計簿』

「四十にして惑わず」という言葉を知ったのは、いつだったっけ?
この言葉を考えた人はとってもりっぱな心の持ち主なんだろうなと、やさぐれた気持ちになったことだけは覚えているんだけど。

以前、荻原魚雷さんの『中年の本棚』に、「四十にして惑わず」が出てきた当時の平均寿命は50歳ぐらい。
だから40歳にして惑わないこともできたのかもしれない。
そんな話が書いてあって、なるほどなと思った。

人生が100年時代では、40歳なんて鼻たれ小僧みたいなもんですもんね。
惑いまくりでもおかしくないよね、鼻たれてるし。

しかしこの「四十にして惑わず」と言った孔子は、74歳まで生きてたらしい。

そもそも孔子さんとは人間の土台が違うから、孔子さんと同じ目線で40歳にして惑わないなんて思うことに無理があると思う。
そういうことにして、40歳になっても迷い続けたらいいのよ。
そう思っていた。

そんな中で佐渡島庸平さんの『観察力の鍛え方』を読んでたら、こちらにも「四十にして惑わず」の話が出てきた。

佐渡島さんは「不惑」になるためには、正解があると思っていたと本に書かれていた。
でもそこがそもそも間違っていて、絶対的な正解なんてない、わからないこと、あいまいなことを、そのまま受け入れる。
それこそが「惑わず」なのではないか、と。

たしかに「正解」を求めると、迷うことは増える。
間違った答えを出したくないから、正解であり続けたいから、どっちが正解だろうかと日々悩むことになる。

しかし世の中には、絶対の「正解」なんて無いんだと考えてみると、迷いは減る気がする。

わかりやすい「正解」を手にすれば、それが不安を消すことにもなり、不安がなくなれば、人は安心できる。
そう思っていたけれど、「正解」を追うことは、自分の選んだ答えが本当に正しかったのかを、自問自答し続けることでもある。
その自問自答を繰り返しても、正しい答えなんてない。
だってどこにも「正解」なんてないのだから。
ただただ自問自答して、惑い続ける時間が流れていくだけ。

そんな風に考えてみると、答えなどない「正解」を求めて、私は毎日どれだけの労力を使っているのだろうか、と思ってしまった。
ただ疲れるだけの人生を過ごしてきたのでは?
そう思ってしまうと、とてつもない疲労感が発生したので、この件はここで終了。

そんな最近の読書は『彼女の家計簿』

原田ひ香さんの本、相変わらず面白くてこちらも一気読み。

タイトルには家計簿とあるけれど、お金の話はあんまり出てこなくて、本筋となるのは家計簿に書かれた日記のほう。

戦前戦後を生きた加寿という女性の日記を読み、妻として嫁として必死に尽くす加寿の姿に心がふさいだ。

これは昭和初期を生きた女性特有のものではなく、いまもまだ存在している価値観のような気がする。

女は内助の功に徹すること。
表立つことは許されない。
自我を見せることは許されない。

そんな時代は遠い昔だと言えない程度には、私も女性として軽視されて来たと思う。
そしてそれもまた仕方がないことだと、心のどこかで思ってもいた。

「女性軽視は仕方がないこと」だと諦めてきた自分に心がふさいでしまったものの、『彼女の家計簿』はフィクションとして面白く読めた。

しかし原田ひ香さんの本は、どの作品を読んでも一気にドバーッと読ませる力があるんだけど、あれって何なんだろうか?

引き込まれ力が凄まじくて、原田さんの本を読むたびに寝不足になるのだけど、こんな寝不足ならいつだって大歓迎。

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